鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 581 ―また、印相では、右手を施無畏印、左手を与願印または膝上に伏せる説法相を示すものが主流であるが、右手を肩の外に挙げて仰掌し、左手を膝上に伏せるもの(破窰第82号)、右手を膝上に伏せ、左手を与願印とするもの(恵簡洞西壁主導など)、禅定印を結ぶもの(破窰第48号左方像)など、多種多様なものが認められる。さらに尊像構成では、独尊像や比丘、菩■などを両脇に配する三尊、五尊形式のものが基本であるが、多数の如来倚坐像を千仏形式であらわすもの(万仏洞甬道南壁S2号など)、2躯ないしは3躯の如来倚坐像を横並びに配する二仏並坐(破窰第113号)、三仏並坐(第360号龕、破窰第48号)の形式をとるもの、あるいは同一龕内に如来倚坐の二仏並坐像を二組あらわすもの(賓陽南洞西壁W4号)も認められる。こうした多種多様なありようを示す唐代の如来倚坐像について、それぞれの尊格を比定するためには、やはり作例ごとのより慎重な検討が必要であるが、優填王像以外のこれら在銘、無銘の作例に共通していえることは、倚坐像であること、そして大半の作例が垂下した足先をそれぞれ踏み割蓮華にのせることである。このことは唐代の龍門石窟において、倚坐という坐勢とともに踏み割蓮華が、弥勒仏を表象するものとして強く認識されていたことを示すものと捉えることが可能と思われる。③ 阿弥陀仏龍門石窟唐代の如来倚坐像のうち、「阿弥陀」銘を有する作例は、北市絲行洞前庭西壁窟門南側の天授元年(690)銘文昌□造阿弥陀像龕(W9号)〔図8〕がある。本仏龕の中尊は、頭部や両腕、両脚部などを破損するが、偏袒右肩に大衣をまとい右肩に覆肩衣をかける着衣、垂下した両足先をのせる踏み割蓮華などを確認できる。その像容は基本的に弥勒仏の作例と同様であるが、本仏龕は、龕右側の題記中に「敬造阿弥陀像/一鋪」の文字があり、中尊如来倚坐像は阿弥陀仏に比定できる。本仏龕の存在は、貞観年間の段階ですでに弥勒仏の図像として定着し、7世紀半ばから後半にかけて多様な展開を果たした如来倚坐像が、7世紀末の段階で、弥勒仏以外の尊格にも用いられる状況が生じていたことを示すものと思われる。(注15)。三 結びにかえて以上、龍門石窟の如来倚坐像について、時代ごとに検討を試みてきた。その結果、龍門石窟において、北朝期に尊格が流動的であった如来倚坐像は、初唐期・貞観年間(627−649)までに弥勒仏の図像として定着をみた。その後、弥勒仏の図像として多様な展開を果たした如来倚坐像は、7世紀末ころまでに弥勒仏以外の造像にも用いられ

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