鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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注⑴ 如来倚坐像の尊名に関する近年の研究には、①石松日奈子「弥勒像坐勢研究─施無畏印・倚坐の菩■像を中心に─」(『MUSEUM』502号、東京国立博物館、1993年)、②肥田路美「勧修寺繍仏再考」(『佛教芸術』212号、毎日新聞社、1994年)、③拙稿「玄奘発願「十倶胝像」考─「善業泥」塼仏をめぐって─」(『佛教芸術』261号、毎日新聞社、2002年)などがある。― 582 ―⑵ 例えば、河北省曲陽修徳寺遺址出土の白玉像のなかには、北魏・正光元年(520)の「釈■」銘如来倚坐像、同・正光4年(523)の「弥勒」銘如来倚坐像などがある(楊伯達著・松原三郎訳『埋もれた中国石仏の研究─河北省曲陽出土の白玉像と編年銘文─』東京美術、1985年)。また、隋・開皇2年(582)の呉野人夫妻等四面十二龕像(河南省博物院蔵、伝河南省滑県出土)は、北面上層龕に「阿弥陀」銘の如来倚坐像をあらわしている(水野清一「開皇二年四面十二龕像について」(『東方学報』京都第11冊第1分冊、東方文化研究所、1940年。『中国の仏教美術』平凡社、1968年に再録)。⑶ 本調査研究では、龍門石窟の如来倚坐像について、主に①劉景龍・楊超傑著『龍門石窟総録』全12巻(中国大百科全書出版社、1999年)を参照し、あわせて②劉景龍編著『古陽洞 龍門石窟第1443窟』全3冊(科学出版社、2001年)、③劉景龍編著『蓮花洞 龍門石窟第712窟』(科学出版社、2002年)④劉景龍主編『龍門石窟造像全集』第1・2・10巻、文物出版社、2002−2003年)、⑤劉景龍編著『賓陽洞 龍門石窟第104,140,159窟』全2冊(文物出版社、2010年)などを参照した。⑷ 石松日奈子『北魏仏教造像史の研究』(ブリュッケ、2005年)157頁。⑸ 温玉成「龍門北朝小龕的類型、分期与洞窟排年」『中国石窟 龍門石窟一』(文物出版社・平凡社、1987年)によれば、本仏龕は外方内尖龕のADⅢ式に分類され、類例に、古陽洞北壁の永熙2るようになった、というおおまかな展開が把握された。ただ、初唐期ころまでに如来倚坐像が弥勒仏の図像として定着するにいたった過程や要因はなお明らかではない。この問題については、さらに広い地域の作例や、その基盤となった弥勒信仰の展開も含めて検討を試みることで、具体的かつ総合的に把握することが必要である。ところで、日本において如来倚坐像は、7世紀後半から8世紀前半までの一時期に集中して制作がおこなわれたとみられ、それを物語るさまざまな作例が伝えられている。これは弥勒仏として如来倚坐像が盛んに造像された中国初唐期の動向に直接的な影響を受けたことによるものと思われるが、それら日本の如来倚坐像には、弥勒だけではなく、阿弥陀、釈■などの作例も認められる(注16)。つまり日本において如来倚坐像が、同時代の中国とは必ずしも一様ではない展開をとげていたことをうかがわせるが、これは如来倚坐像という新しい図像が、7世紀後半の日本で受容されるにあたり、弥勒仏の図像という同時代の認識とともに、尊格が流動的なそれ以前の性質をも同時に受け入れたことによるものと思われる。こうした日本における如来倚坐像の受容と展開の問題も視野に入れながら、今後さらに検討を進めていきたい。

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