⑹ 禅定印結跏趺坐の無量寿仏像には、蓮華洞北壁の孝昌3年(527)銘清信女黄法僧為亡妣造無量寿像龕(N90号)などがある。なお、龍門石窟の阿弥陀・無量寿仏については、岡田健「初唐期の転法輪印阿弥陀図像についての研究」(『美術研究』373号、東京文化財研究所、2000年)を参照した。⑻ 王振国「龍門路洞几个問題討論」『中原文物』2001−2、中国・中原文物編輯部。⑼ 中国の三世仏造像に関する主な研究には、①劉慧達「北魏石窟中的三仏」(『考古学報』1958−4、中国科学院考古研究所)、②賀世哲「関于十六国北朝時期的三世仏与三仏造像的問題⑴・⑵」(『敦煌研究』1992−4、1993−1、中国・敦煌研究編輯部)、③賀世哲「関于敦煌莫高窟的三世仏与三仏造像」(『敦煌研究』1994−2、中国・敦煌研究編輯部)などがある。⑽ 張宝玺「炳霊寺的西秦石窟」(『中国石窟 炳霊寺石窟』文物出版社・平凡社、1989年)及び同― 583 ―⑺ 宮大中「路洞的東魏造像与降魔変相」『龍門石窟芸術』(上海人民出版社、1981年。人民美術出⑾ 一方、弥勒図像の変遷については、水野清一氏が「倚坐菩■像について」(『東洋史研究』6−1、東洋史研究会、1940年、『中国の仏教美術』平凡社、1968年に再録)において、北魏時代に主流であった交脚の菩■像が、北斉・北周期までに倚坐の菩■像へと変化し、さらに初唐期ころまでにそれが倚坐の如来像へと発展したことを指摘されている。この水野氏の見解をふまえ、石松日奈子氏は、前掲注⑴−①において、より複雑な弥勒造像の状況について詳細に論じられている。⑿ 優填王像に関する主な研究には、①李文生「我国石窟中的優填王造像」(『中原文物』1985−4、中国・中原文物編輯部)、②松原三郎「初唐彫刻と印度─特に優填王像造像を中心として─」(仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書14冊『研究発表と座談会 仏教美術における「インド風」について─彫刻を中心に─』1986年)、③肥田路美「初唐時代における優填王像─玄奘の釈■請来とその受容の一相」(『美術史』美術史学会、120冊、1986年)、④曾布川寛「龍門石窟における唐代造像の研究」(『東方学報 京都』60冊、京都大学人文科学研究所、1988年)、⑤岡田健「龍門石窟初唐造像論─その二 高宗前期─」(『佛教芸術』186号、毎日新聞社、1989年)、⑥岡田健「関於優填王造像的若干報告─討論東南亜対中国唐代佛教造像的影響─」(龍門石窟研究所編『龍門石窟一千五百周年国際学術討論会論文集』文物出版社、1996年)、⑦稲本泰生「優填王像東伝考─中国初唐期を中心に─」(『東方学報 京都』69冊、京都大学人文科学研究所、1997年)、⑧濱田瑞美「中国初唐時代の洛陽周辺における優填王像について」(『佛教芸術』287号、毎日新聞社、2006年)などがある。⒀ 前掲注⑴−①・②、⑿−⑦を参照。⒁ 岡田健氏は「龍門石窟初唐造像論─その三 高宗後期─」(『佛教芸術』196号、毎日新聞社、1991年)のなかで、上元2年(675)完成の奉先寺洞中尊盧遮那仏像が通肩にあらわされて以降、通肩の造像例が目立って増加することを指摘されている。通肩の如来倚坐像についても、こうした如来像全般の傾向を反映して、上元2年以降、次第に増加したものと考えられる。⒂ なお、本仏龕の上部には、天宝13年(754)銘比丘尼浄元造弥勒観音像龕がある。仏龕下部の題記から、弥勒仏に比定される中尊は右手を腹前におき、左手を膝上に伏せた結跏趺坐像としてあらわされる。年(533)銘陵江将軍殷桃樹造無量寿仏龕(N285号)、同南壁の天平4年(537)銘清信女孫思香造観世音像龕(S177号)などがある。版社、2002年に増訂再販)。書図36を参照。
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