3.オルシーニ枢機卿の蔵書と《12人のシビュラ》パドヴァの僭主、フランチェスコ・ダ・カッラーラの部屋をこの「有名偉人」像で装飾する計画があったことが示唆されており(注11)、人文主義的作品を造形化するというスタイルがこの時期に定着しつつあったことがうかがえる。「サーラ・テアトリ」の300人余りもの《著名人像》は、前世紀から続くこの潮流の中でもっとも巨大な作品であった。その背景には、この時代類を見ない枢機卿の膨大な写本コレクションと、彼の人文主義サークルの存在がある(注12)。教皇マルティヌス5世の特使としてのヨーロッパ歴訪を通じて、オルシーニ枢機卿が各地から集めた写本は366冊にのぼり、その内容は、キケロ、リウィウス、プルタルコスら古代作品から、アウグスティヌス、グレゴリウスらキリスト教教父の作品、ペトラルカ、ボッカチオら前世紀の文学作品など多岐にわたっていた(注13)。こうした枢機卿の人文主義的関心は、ポッジョ・ブラッチョリーニ、レオナルド・ブルーニら新進気鋭の学者たちを惹き付け(注14)、なかでもロレンツォ・ヴァッラはその著作『快楽と真の善について』の中で、彼らがモンテ・ジョルダーノで古代風の服装をしながら、異教とキリスト教における人間の正しい行いについて語り合っていた、と証言している(注15)。現存する複数の写本中で、シビュラと「世界全史」とが結びつけられていることをあわせ考えれば、「カメラ・パラメンティ」の《12人のシビュラ》は「サーラ・テアトリ」の《著名人像》の構想から派生し、これらの人文主義者たちによって枢機卿の膨大な蔵書をもとに考案されたものと推測されるのである。枢機卿と人文主義者たちは、その蔵書からどのようなシビュラのイメージを作り上げたのか。オルシーニ邸の装飾と同時期の成立とされるパリ写本、オロモウツ写本を手がかりに見ていきたい。パリ写本において「12人のシビュラ」は、「エリュトライのシビュラがローマ建国の時代に予言したとアウグスティヌスが証言している」との記述からはじまる(19r)。アウグスティヌスがキリストに関するその予言の一部をギリシャ語からラテン語訳したことに言及した後(19r)、イシドルスの『語源誌』の第8巻8章にある「10人のシビュラ」にアグリッパ、エウロパの2人のシビュラを加えたリスト(19r−v)、リエージュ写本が伝えるオルシーニ邸の《12人のシビュラ》の壁画の写しと一致する託宣のリストが続く(19v−20r)。ここで述べられているように、ローマ建国の時代にシビュラを位置づけたのはアウ― 56 ―
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