モードによれば、タキトゥスらの証言からモンテ・ジョルダーノには古代、円形劇場があったと考えられ、そのために枢機卿はこの部屋を「サーラ・テアトリ(劇場の部屋)」としたという(注25)。枢機卿がこのように公私にわたってその蔵書を用いて「古代ローマ」を再現、再興することに注力していたとすれば、「シビュラ」もその古代ローマ性において重視されていたことは想像に難くない。枢機卿の蔵書の古代作品の中で、リウィウスの『ローマ建国史』やプルタルコスの『対比列伝』では、古代ローマにおいて、カピトリウムの丘のユピテル神殿に納められていた「シビュラの書物」が、十人団と呼ばれる神官によって有事の際に参照されていた事例が随所に見られる(注26)。また、枢機卿は上記のローマの主要スポットリストの底本と考えられる12世紀のローマ案内書『ローマの驚異』も所有していたが、その中でシビュラは、カピトリウムの丘で皇帝アウグストゥスにキリストの到来を告げた予言者として登場する(注27)。この時皇帝が「ここが神の子の祭壇である」という声を聞いたことが、ここに建つサンタ・マリア・イン・アラコエリ(天の祭壇)教会の名の由来であるという伝説は、この著作によって有名となった(注28)。この教会を含むカピトリウム地区の建造物について、1421、27、29年に補強再建工事が行われた記録が残っていることから(注29)、モンテ・ジョルダーノ同様、カピトリウムの歴史を辿る中で、シビュラは、古代ローマの信仰とキリスト教とを結びつけるイメージとして注目されたと考えられるのである。オロモウツ写本で次に注目したいのは、「ローマの著名女性リスト」がボッカチオの『著名婦人伝』から引用されていることである。ペトラルカの『著名偉人伝』にならい106人の女性の業績を綴ったこの女性版著名人伝を枢機卿も所有しており、これは《著名人像》の構想に影響を与えた(注30)。この著作でボッカチオは、第21章を「エリュトライまたはエリフィラのシビュラ」、第26章を「アルマテアまたはデイフェベのシビュラ」に割き、その処女性を称賛した(注31)。それまでただ異教の予言者として考えられてきたシビュラがこの時、尊敬されるべき女性の見本としての役割を担い始めたのである。シビュラは第67章「スルピキア」の項目にも見られる(注32)。紀元前3世紀頃、ローマ元老院はローマのすべての女性を悪徳から遠ざけ謙遜の心を持たせるため「改心のヴィーナス(Venere Verticorde)」の彫像を献納する儀式を執り行なうことにした。「シビュラの書物」を参照した十人団の要請に基づき、この儀式のために選ばれたローマの上流階級の女性の中で最も純潔な人物がスルピキアであった。このヴィーナス像はカピトリウムの丘にあったエリュクスのヴィーナス神殿に納められたとい― 58 ―
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