2.他領域からの影響の可能性─禅画と教訓書─このように指摘される遊戯的な文字使用の諸相のなかで、特に「判じ絵」については、明和の初めより流行した絵暦のうち、その年の大小を判じ物としたものからの影響を考慮すべきであろう。しかしながら、文字遊びがさらに多彩な要素を示すことから、まだ別の領域からの影響を検討する余地がありそうである。― 67 ―ここでいささか唐突ではあるが、黄表紙誕生に先立つ時代、臨済禅中興の祖として大きな足跡を残した白隠(貞享2年(1685)〜明和3年(1766))が制作した夥しい数の禅画の中には、文字絵や画中画など、まさに画と文の間を自在に行き来する作例が少なからず含まれていることに注目したい。まず文字絵については、柿本人麿を描く「人丸図」や、「渡唐天神図」の存在が各々報告されている(注6)。一方画中画についても、芭蕉の葉に書かれた文言を眺める寒山拾得の図、書を記した掛軸を背にする鼠大黒の図などが存在する(注7)。こうした白隠による諸図と、黄表紙における表現を直接に結びつけることは確かに困難である。しかしながら白隠の禅画については、版本『白隠和尚自画賛集』(宝暦9年(1759)、柳枝軒小川多左衛門刊)にもまとめられており、画中画を擁する例はここにも散見される〔図9〕。こうした出版物の江戸への流通については今後考究すべき課題であるが、版本を媒介としての受容の可能性は否定できない。さらに既に指摘されていることではあるが、白隠画「お福お灸」(永青文庫蔵)に描かれた男の着物には、『金々先生栄花夢』にある「金々」の語を思わせる「金」印が付されており(注8)、この語が白隠画の描かれた宝暦期(1751−1763)から存在していたとする推測の根拠とされている。白隠画における遊び心溢れる文字の使用と黄表紙のそれが結びつくものであるかという問題については、赤本・黒本・青本という、黄表紙に先行する草双紙のジャンルに遡っての検討を含む形で取り組むべき課題であろう。もっとも、「通」のイメージに影響を与えた可能性のある要素は、白隠の禅画に限られるわけではない。既に教訓書において、仏教説話や教訓をイメージを用いて説明する中には、文字を画中に配する例が見出される。それは、仏教的教訓語である「意馬心猿」を絵画化した諸例のうちの一部に見られる「心」字の扱いである〔図10〕(注9)。興味深いことに、このように目に見えない「心」を字そのままに画中に示す手法は、黄表紙にも見出すことができる。すなわち『間違郭輪遊』(恋川春町作画、安永7年(1778))の、虫送りされた藁人形から丸で囲まれた「心」(文中では「火の玉」と記す)が二つ去っていく場面がそれである〔図11〕。そもそも初期黄表紙以来、教訓的要素や仏教的要素を盛り込んだ黄表紙作例は、常
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