鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
81/620

2.明清の文人趣味における聯と日本への導入中国における堂内装飾の一種である聯は、江戸時代の黄檗宗流行により、その寺院の門を飾る柱聯の形で日本に導入されていたことが確認できる。その一方で、個人の邸宅における聯の諸相は、主として出版物の形で人々に伝えられていたと推測される。― 70 ―京伝がこのように作中人物に対するからかいや、内心の暴露を試みる、いわば読者に開かれた「窓」の役割を果す画中の小道具として、屏風や衝立ではなく、聯を選択したのはいかなる理由からと考えられるであろうか。この点について考察するに当たり、聯の日本導入の経緯について確認することにしたい。中国明末清初は、文人趣味に関する記述が盛んに行われた時代であった。そのうち文震亨による『長物志』や李漁の『閒情偶寄』(注15)は、文人の居室を飾る聯について紙面を割いて説明している。このうちより詳しい内容を寄せるのが『閒情偶寄』であり、巻九において「聯匾」という項目を設けてその概要を説明し、「蕉葉聯」〔図16〕と「此君聯」という木とは異なる素材の聯を紹介している。一方『長物志』は、「巻一室廬」所収「門」において、門前を飾る板製の対聯を「春帖」の呼称とともに紹介している(注16)。いずれの例においても聯の形状は対をなしていることに注目される。この聯を含む中国文人の書斎の具体相を日本人の知識層に図解入りで示したのが、画家宋紫石によって明和8年(1771)に出版された『古今画薮』第3巻に当たる「笠翁居室図式」である(注17)。参考文献に『閒情偶寄』をも含むこの記述中に、聯の図は室中、あるいは門扉の計5ヶ所に見出すことができる。このうち「蕉葉聯図式」においては単聯の形で用いられているものの、「堂室坐几」〔図17〕をはじめとする他の例はいずれも対聯で、上部には横書きの額を伴うものである。このように、日本においても正式な対聯のスタイルで紹介されていた聯であるが、黄表紙を始め、江戸期の絵画資料において紹介されるそれは、おしなべて一枚の、おそらく木製の板からなるものである。この傾向が、かなり早い時期からのものであったことを証する例として、宝暦13年(1763)刊行の大枝流芳著『雅遊漫録』を掲げたい(注18)。同書は当時流行していた中国趣味を形成する様々な文物について説明したものであるが、この口絵中には中国風の文房具と並んで、後年の黄表紙挿絵に見られるものと同じ、一枚の板の形態による聯が描かれているのである〔図18〕。このように中国における文人趣味について紹介した文献とは異なる形で広まってい

元のページ  ../index.html#81

このブックを見る