鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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研 究 者:九州歴史資料館 技術主査 井 形  進1 はじめに九州の石造仏の主役は、その東側に集中する磨崖仏であろう。凝灰岩の露頭に居並ぶ石の仏たちは、堂内の木の仏たちと共存しながら、数的にはともかくその存在感で拮抗し、九州東側ならではの光景を見せている。これらの磨崖仏の中心的なものは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて造像されている。そして、大分県臼杵市の臼杵石仏や大分市の元町石仏など、想定される造像年代が早く、丸彫に近い尊容をもち、石らしい粗豪さの中に、都ぶりの洗練を併せもつ代表的な作例については、中央の木仏師の関与が想定されるなどしているのは、よく知られる所である。磨崖仏と言えば九州西側にも、熊本県熊本市の円台寺磨崖仏や佐賀県唐津市の鵜殿石仏(注1)など、早くから知られてきたものはある。前者は、かつて広壮な伽藍を誇ったであろう円台寺の寺域の、東側の縁に切り立った凝灰岩の壁面に刻まれている。半肉彫の、説法印を結ぶ阿弥陀如来坐像、来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像、善光寺式阿弥陀三尊像〔図1〕を中心としつつ、他に、小龕中に彩色仏画で、阿弥陀如来坐像〔図2〕をあらわしていたりする。鎌倉時代後期のものである。後者は、唐津湾から松浦川を遡ること12km程の所にある丘陵の、砂岩の露頭に、60躯を超える仏たちが半肉彫で刻まれたもので、南北朝時代から室町時代の造像だとされる。とくに等身大の二天像〔図3、4〕は、群中で最も見応えがある。円台寺磨崖仏、鵜殿石仏は共に、鎌倉時代後期から室町時代にかけての、それぞれの地における造像活動を考える上で、重要な存在である。しかしこれらは、やはり九州東側の磨崖仏に比較すると、規模としても量としても洗練としても及ぶものではなく、また造像年代が遅れることもあり、それらの影に隠れるような印象があった。九州の石造仏が、九州東側を主として語られるのも、故なしとはしない。しかし近年、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、九州西側にも充実した石造仏の世界が展開していたことが、浮かび上がりつつある。ここでは、そのような世界について見てゆきたい。2 2躯の滑石製の仏像九州西側の石造仏として、既に著名なものと言えば、奈良国立博物館現蔵の弥勒如来坐像〔図5〕と、福岡県宇美町の宇美八幡宮の如来形立像〔図6〕(注2)の、2― 91 ―⑨九州西側の石造仏とその特質

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