躯の滑石製の仏像がある。まずは、これらをあらためて見ることから始める。九州には良質な滑石の産地が少なからずあり、爪でも削れるほど容易に加工ができる滑石は、様々な用途に重用されている。そのような中で九州には、滑石製の仏像や神像も、少なからず存在しているのであるが、これら2躯はその代表例だと言える。奈良国立博物館の弥勒如来坐像は、長崎県壱岐市の鉢形嶺経塚から出土した。延久2年(1070)に仏師肥後講師慶因によって造像され、翌年に埋納されたもので、銘文と像の形状から、この像そのものが、如法妙法蓮華経の容器となっていたことが分かる。ちなみにこの点は、臼杵石仏等九州東側の磨崖仏の台座に、経典を収めたと思われる空間が設けられて、像そのものが埋経施設となっている場合があることと、一脈通ずるように思う。平安時代後期における石造仏の隆盛と、経塚ないしは末法思想は、関係している可能性があるのではないか、と考えている所である。像の本体は、像高54.3cmを測る全容を、一つの石塊から彫り出している。材の制約もあってか、下半身は前後左右が圧縮された形となっているが、上半身は存在感のある確かな造形を見せている。しかし、面部は厳しく癖のある表情をもち、体部は重厚で、銘文がなければ、延久頃の造像だとは見ないかもしれない。地方色豊かな平安時代後期の基準作の一例である。宇美八幡宮の如来形立像は、経塚造営が集中した場として広く知られ、大宰府政庁跡や観世音寺などの背後に構えている、四王寺山から出土したものである。銅製経筒と共に出土していて、経典自体はそちらに納められたものではあれ、こちらの場合も、やはり経塚と関係する石造仏である。像高は48.2cmで、同じ石塊から彫り出されている台座や光背までを含めた、総高では69.7cmを測る。共に出土した経筒や、周辺から出土している経塚遺物等と考え合わせ、12世紀前半の造像だと押さえることができる。彫刻は面部を丁寧に、そして上半身から下半身へ、さらには台座や光背へと離れてゆくにつれて、粗くなってゆくのであるが、円満で穏やかな表情を浮かべる面部や、胸のあたりなどふっくらと丸みを帯びて、そして力の抜けた体つき、側面観の、薄くやや平板な体形などについては、当該期の木造仏と軌を一にするものだと言える。宇美八幡宮の如来形立像のみならず、これら2躯の仏像は共に、石造でありながら、木造仏と通ずる点ももっている。奈良国立博物館の弥勒如来坐像にせよ、その面部を見ると、口周りなどに顕著なごとく、生々しいまでの肉身の抑揚を見せていて、それは、石造仏一般とは異質である。臼杵石仏等と同様に、2躯の石造仏の作者は、木彫の仏師と縁ある人物、ないしは、木彫の仏師その人なのではないかと考えている。後者の作者の、仏師という名乗りや講師という肩書も、それを示している可能性がある。― 92 ―
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