平安時代後期、とくに石造仏の隆盛が顕著となる頃においては、木造仏と石造仏の世界は近しく、場合によっては重なっていたように看取される。軟らかい石材の選択は、そのような視点からも考えることができるかもしれない。共に九州北部での造像が考えられ、近い時期に造像された、これら基準的な2躯の石造仏は、異なる個性をまとうことから、複数の流れが交錯しつつ造像活動を行っていた様子の一端を浮かび上がらせ、それが石造仏の世界にとどまらずに、木造仏の世界と連続していたことを推察させてくれる。基準が限られている当地の木造仏を補いながら、往時の造像活動について考えてゆく上での、重要作例だと評することができる。また肝心の石造仏の問題としても、基準となるのみならず、平安時代後期の石造仏隆盛の一つの契機として、経塚、ないしは末法思想との関わりを推察させる点も興味深い。これら2躯の像は、さまざまな問題について考える起点となる作例である。3 石造四天王像の広がり平安時代後期の丸彫の石造仏として、目につく一群が、廃仏毀釈によって仏教色が一掃された印象がある、鹿児島県を中心に遺っている。その代表は、鹿児島県霧島市の、隼人塚の四天王像〔図7、8、9〕である(注3)。鹿児島湾の北岸に位置する霧島市は、大隅国府跡や大隅国分寺跡があるなど、政治的文化的に重要な地域であった。隼人塚は、方形の土壇の上に3基の石造五重塔を建て、壇の四隅に石造四天王立像を安置しているというもの。塔に浮彫された仏像も目を引くが、これらを含めた紹介は別稿を期する。四天王像は、像高は172cmから179cmを測り、総高は2mを超える。これらは、その全容を一つの粗い凝灰岩の塊から彫り出していて、そのような構造によるものか、丸々と量塊感があり、法量以上に大きく感じられる作例である。これら四天王像に関しては、塚上の塔が、大隅国分寺跡の康治元年(1142)銘の、現状六重の石造層塔(注4)と通ずること、そして隼人塚近くの正国寺跡から、康治元年銘の石造如来形坐像と石造菩薩形立像〔図10〕が出土し、その頃の周辺地域における、造形活動の隆盛が推定されることをもって、12世紀の造像だとされている。材質構造共に異色なため、比較検討は難しいが、とくに背面観の、丸みの強い体をゆったりと動かす様子は、平安時代後期の典型を見せていて、筆者も造像は12世紀の半ば頃でよいと考えている。ちなみに、周辺では他にも、平安時代後期の石造如来形坐像や、石造四天王立像の断片〔図11〕が複数確認されており、当地の仏教文化が石造物を多く用いながら、個性的な充実を見せていた様子が窺える。なお、隼人塚の四天王像は、像容にも注目すべきものがある。これらの像は全てが― 93 ―
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