鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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兜をかぶっていて、そしてうち2躯が、剣あるいは刀を、台座に突き立てるようにして持っている。このような姿は、国内では希有である。しかし、例えば下方に剣を突き立てる姿は、寧波の南宋石刻公園にある石造武人立像をはじめ、中国の作例にはまま見られるものである。そのため、このような隼人塚の四天王像の像容については、何らかの形での、大陸からの影響の可能性が想定されている所である。平安時代後期における盛況は、薩摩川内市でも見ることができる。ここは東シナ海に灌ぐ川内川の河口に開けた平野部に、薩摩国府跡と薩摩国分寺跡があるなど、やはり要地であった。そして薩摩国分寺跡に、平安時代後期の石造層塔が3基〔図12、13〕あることは、かねてより知られていた。これらは隼人塚の五重塔同様、軸部に仏像を半肉彫で刻んでおり、尊像は、密教系を中心に多岐にわたっている。南九州の往時の信仰と造形の様相を明らかにする上で、貴重な彫刻作品である。今回調査では、この塔のすぐ側で、四天王と思われる、石造天部形立像の下半身〔図14〕も確認した。これは、薩摩川内市川内歴史資料館蔵の、伝多聞天の石造天部形像の上半身〔図15〕と合わさるか、でなくとも一具の像のものである可能性がある。周辺に少なくとも一組は石造四天王像が存在していたことになる。この他にも天部形立像は2躯確認されていて、1躯は安国寺の伝持国天像〔図16〕、1躯は虚空蔵峯の伝広目天像〔図17〕である(注5)。これらは、頭部が体に比して小さく、体勢はゆったりとしていて、とくに背面は穏やかな丸みをもち、むしろ隼人塚の像よりも、平安時代後期らしさをよく見せている。やはり12世紀の作であろう。なお、これらの石像は、国府の東西南北に1躯ずつ配されて守護していたのだ、という説があるが(注6)、筆者は、薩摩国分寺跡の塔と関係する場合も、考えるべきかと思っている。いずれにせよ南九州に、個性的で充実した石造仏の世界が存在していたことは確かである。そしてこのような世界は、かなりの広がりをもっていた可能性がある。それを感じさせる作例の一つは、薩摩国府と大隅国府を結んだ道沿いの、姶良郡蒲生町の久馬神社の、2躯の丸彫の石造仏〔図18〕である。これらは四天王ではなく、塔にも伴わず、不動明王立像と毘沙門天立像の2躯であるが、その丸々としたなかに温雅さを漂わせた面部は、平安時代後期の趣をもつ。実際の造像はやや降る可能性こそあれ、南九州の平安時代後期における石造仏の世界を基盤にもつことは確かであろう。そしてもう一件見ておきたいのは、佐賀県佐賀市の四天社である(注7)。これは小高い方形の土壇の上に、現状総高120cm程度の、平安時代後期の石造四天王立像〔図19、20〕を安置しているもので、四天王は全てが兜をかぶり、1躯が刀を台座に突き立てている(注8)。その様子はまるで、小型の隼人塚のようである。このことにつ― 94 ―

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