いては、直接の関係ではなく、南九州の作例と四天社の像が、源を共有すると考えることもできる。しかし四天社は、付近に肥前国府跡や肥前国分寺跡があるという環境まで、南九州の作例と通じていて、関係を想定することも不当ではないと思う。有明海の北側にあたる当地は、海路では極端な話、薩摩と直結しうる場でもある。そしてもし、後者が史実であるならば、南九州の石造仏の世界は、看過できない充実と影響力を持っていたことになる。南九州の木造仏の世界については、畿内からもたらされた作例を中心に、在地的なものが取り巻くという、地方一般の様相を見せていたことが、江戸時代の地誌等から窺えるが、これに、独特の石造仏の充実を加えつつ、往時の仏教文化の活況を、復元したいと考えている。4 薩摩塔について薩摩塔は、木造のそれを石で模した須弥壇の上に、壺型の塔身を据え、その上に、強く反った屋根がのるという姿をした石塔で、須弥壇には四天王像が、塔身正面の龕中には1躯の尊像が、半肉彫であらわされている。塔の姿といい、刻まれた尊像といい、異風際立つ存在である。この塔は、半世紀前に薩摩で初めて確認されたことから、その名がある。その後の調査の進展で、平戸周辺や福岡平野周辺を中心とする西北九州からも確認され、むしろ重心はこちらにあることが明らかになったものの、40基弱が知られるようになった現状でも、分布は九州西側に限られている。石塔ではあるけれど、分布や仏像彫刻に鑑み、本稿でとり上げる必要のある存在だと思う(注9)。この薩摩塔に関しては、近年まで制作地や制作時期が絞り込めていなかったが、福岡県久山町の首羅山遺跡(注10)にある2基〔図21、22、23、24〕の内の、とくに西側の塔を通して、まずは制作地を押さえることができた。注目したのは四天王の甲制である。これらは総じて、冠、兜、獅子帽等何かをかぶって、裾長の甲をまとい、腕には輪を積み重ねたような形状のいわゆる海老籠手をつけ、そして足にも輪を積み重ねたような形状の脛当をつけている。このような甲制を見せるものは、日本では、一群の兜跋毘沙門天像が挙げられるくらいであるが、そもそも原点である京都府東寺の像は、中国唐代の作である。中国の作例を見渡すと、このような甲制をもつものは少なくない。さらに、日本では皆無である、四天王全てがこのような甲制をもつ作例も、まま見受けられる。これをもって筆者は、塔の制作地を中国としたのであった。そして制作の時期についても、一緒に伝わる宋風獅子と共に考えることで押さえた。宋風獅子とは、片方が子を抱き、もう一方が毬をとる形式の、古渡の中国製の石造獅子、あるいはそれを模して中世の日本で造られたかとされる石造獅子を、そう称― 95 ―
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