しているもので、1件が京都府、1件が岡山県、1件が山口県にある以外は、10件程度の作例が、西北九州に偏在している(注11)。その中で首羅山遺跡の宋風獅子は、破損著しいものの、像容と歴史的背景から13世紀半ばの制作が推定できる。そしてこの宋風獅子と西側の薩摩塔は、石質や仕上げや細部表現の共通から、一具の可能性を含め、同一時期同一工房の作だと見ることができる。ここで両者を相補って考えることで、双方共に、中国で13世紀半ばに制作されたものだと示すことができたのである。薩摩塔の制作は総じて、13世紀を中心としつつ、12世紀から14世紀の中国に、絞り込むことができると考えている。そして塔の移入者は、入宋僧や入元僧などではなく、中国人商人だと考えている。僧たちが活躍した京都や鎌倉他には塔が存在せず、中国人商人の拠点が存在し、あるいはその可能性がある、九州西側の特定地域を中心に存在しているからである。今後この塔を通して、今まで知られていなかった美術移入の在り方と信仰世界が、浮かび上がってくるのではないかと考えている。そしてこの塔は、日本彫刻史における大陸からの影響を考える上でも、小さからぬ意義をもつ可能性がある。例えば隼人塚の四天王像の、剣を下方に突き立てる姿については、そこに大陸からの影響を肯定する場合にも、一般にはその源は、図像等平面資料が想定されてきた。しかし薩摩塔には、同様の姿をした四天王像が刻まれており、日本の彫刻への大陸からの影響を検討する際には、仏像があしらわれたこのような立体的な造形についても、今後もっと意識してゆかねばならないのではないかと考えている。5 結び九州西側の平安時代後期から鎌倉時代にかけての石造仏は、磨崖仏が主である九州東側とは異なって、丸彫の像が目立つ。磨崖仏に関しては、仏が刻まれた場そのものにも、信仰上の意義がある場合があるのではないかと考えているが、丸彫の像は、石という材質には意義があるにせよ、石材の産地に意義があるとは、必ずしも想定しがたい。この点、丸彫の石造仏は、木の聖性や経典内容等を材の選択背景とする場合であっても、必ずしも木材の産地に意義があるわけではない、木造仏における材の在り方と通ずる点もある。先に九州西側の石造仏、特にその初期の作例の、木造仏との共通性について指摘したが、それはこのような点からも言及できる。九州西側において石造仏は、木造仏と通じ相補いながら、仏像彫刻の世界を構成していたのである。その重要性は、場によって軽重があったようであるが、とくに南九州では、石造仏が重く用いられる、この地ならではの世界が形成されていた様子を、現存する平安時代後期の作例群は示している。この地の様子は、九州の他地域とはまた異なる充実を、― 96 ―
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