注⑴鵜殿石仏については、《九州の寺社シリーズ11》『肥前 相知 鵜殿石仏』(九州歴史資料館・1991見せるものだったように感じられる。一般に九州においては、太宰府周辺地域と、宇佐国東周辺地域が二大中心であって、両地域が車の両輪のような役割を果たしながら、九州における造像を牽引したのだと言われている。しかし実は、かつては南九州にも、これらとは異なる個性をもった中心が、あったのかもしれない(注12)。三者が鼎立し、それぞれが中央と、あるいは三者が相互に影響し合いながら、九州ならではの仏世界が、編み出されていた可能性があると考えている。そして九州西側の石造仏の背後には、大陸の影が濃く淡く見えていることに、あらためて注目しておきたい。とくに薩摩塔は、まさしく中国からもたらされたものであって、大陸との交流の窓口としての九州の側面を、明瞭に示している。また、その受容が九州西側にとどまって、そこから東へ行くことがなかった様子も興味深い。日本の仏像は、時によって強弱を見せながら、大陸から学びつつその時その時の姿を形づくってきたが、薩摩塔の分布を見るにつけ、やはりその受容は選択的なものだったことが理解される。九州は地理的歴史的に大陸からの文物が蓄積されやすい場であり、そして日本の中では、大陸文物の濾過装置の役割を果たす場であった。受け入れ可能なもの、受け容れるべき意義をもったものが、ここで濾し取られ、そして日本彫刻史の主流に流し込まれて、新しい時代のかたちを導いたのであろう。九州西側の石造仏は、これまではさほど注目される存在ではなかった。しかしこれらは、九州について、日本について、そして東アジアの歴史や文化を考える上でも、重要な意義をもった存在であることが、次第に明らかになってきつつある。調査研究を深める中で、さらに多くのことを学ばせてくれるだろうと考えている。⑵これら2像については基本的に、『経塚遺宝』(奈良国立博物館・1977年11月)に主として拠った。⑶隼人塚と石造四天王立像、また後述の正国寺跡出土石仏等について詳論したものに、八尋和泉「隼人塚石造四天王像考」(『鹿児島考古』第34号・2000年7月)がある。⑷大隅国分寺跡の石造層塔、先述の隼人塚の3基の石造五重塔、そして後述の薩摩国分寺の3基の石造層塔はじめとする、南九州の石塔に関しては、多田隈豊秋『九州の石塔』下巻(1978年2月)を参照した。⑸薩摩川内市川内歴史資料館の伝多聞天像の存在は末吉武史氏に、虚空蔵峯の伝広目天像の存在は吉本明弘氏に、御教示をいただいた。⑹小倉一夫「薩摩国分寺四天王石像のなぞ」(『千台』33号・川内郷土史研究会・2005年3月)に指摘されている。年3月)に詳しい。― 97 ―
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