図版出典図5 『王朝の仏画と儀礼』(京都国立博物館・1998年10月)図10、図11 『霧島市文化財ガイドブック』(霧島市教育委員会・2007年3月)⑺四天社の石造四天王像については、松本隆昌「佐賀県四天社石造四天王像─佐賀県佐賀郡大和町所在の丸彫石造四天王像について─」(『佛教藝術』251号・2000年7月)があり、参照した。⑻これと通ずる像容をもつ木造仏に、大分県豊後高田市の真木大堂の四天王立像がある。田■三郎助氏は「旧尼崎家蔵四天王像」(『國華』1166号・1993年1月)において、ロンドンギャラリー現蔵の四天王像を紹介し、真木大堂の四天王像を、像容の点で近しい関係にある作例として挙げ、他の通ずる作例を列記しながら、北部九州に、このような像容の系統が流布していた可能性を指摘されている。南九州の石造仏とこれらは、材質の相違を超えて、直接間接は措き、何らかの関係をもつ可能性がある。具体的な関係の解明が必要であるが、いまは用意がないので今後の課題としたい。⑼薩摩塔研究は近年活況を呈している。筆者もいくつか拙論を著しているが、ここでは制作の時空を絞り込んだ、「首羅山遺跡の宋風獅子と薩摩塔」(『首羅山遺跡─福岡平野周縁の山岳寺院─』・久山町教育委員会・2008年12月)と、これまでの研究を踏まえて背景にまで言及を試みた「薩摩塔の時空と背景」(『デアルテ』28号・2012年3月)を、参考文献として挙げておきたい。⑽首羅山遺跡は、13世紀を盛期としながら、12世紀から15世紀にかけて存続し、その後急速に衰退した、山岳寺院の遺跡である。特徴としては、保存状態が良好なこと、陶磁器をはじめとする、大陸渡来文物が豊富なことが挙げられる。その詳細は『首羅山遺跡発掘調査報告書』(2012年3月)をはじめとする、久山町教育委員会発行の諸書に拠っていただきたい。⑾宋風獅子については、注⑼に挙げた「首羅山遺跡の宋風獅子と薩摩塔」、および「宗像大社の宋風獅子とその周辺」(『佛教藝術』283号・2005年11月)を参照されたい。⑿このような考えは、かねてより八尋和泉氏が示しておられたものであるが、今回筆者は、石造仏の調査研究を通してそれを実感し、その様相について、一歩進めて考えてみたものである。― 98 ―
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