鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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の塊であることは言うまでもない。このように飛倉巻の物質的充足に対して、延喜加持巻では、もう一つの素朴な願いである身体的充足に応える内容となっており、話型の同型性も含めて両者で一対の説話構造を形成していると言って良いであろう。ただ、長者から倉を受け取った命蓮も、天皇から地位や領地を受け取ることは遠慮する。また、命蓮は宮中へのお召しをかたくなに拒否もする。身体的充足はあくまで信貴山の主導権の下に、祈願に対する恩恵として与えられるのであって、天皇の実質的象徴的両面にわたる権威に服して奉仕するものではないことが語られている。天皇の威に服さないことは、特別な人のためだけに奉仕するのではなく、信貴山の効験は万人に開かれていることを、暗に示すものであろう。尼公巻は、説話構造的には、前二巻を上位で統合する位置にあると言えよう。尼公の巻では、命蓮は超人的な能力を持つ怪僧ではなく、一人の人間に戻っている。彼は長年修行を積み重ねた年老いた僧であり、姉と離れて暮らす孤独な弟である。これを訪ね行く、姉の尼もまた年老いており、長年の別居暮らしの末、思いあまって弟探しの旅に出る。ここではまず物質的充足と身体的充足の双方の上に成り立つ長寿の徳・老徳というものが示されている。生命をつなぐ財産と健康的な身体の充実がなければ長寿は簡単には得られない。そしてもう一つの軸を成す主題が姉と弟の精神的結びつきとして描かれる家族愛であろう。こうした二つの主題は、姉の尼が東大寺への旅路の途中で弟の行方を尋ねるのが、老夫婦であり、その老夫婦の背後には娘や孫までが描かれていることで強調されることになる。そこでもまた、長寿の徳と三世同堂の家族の結びつきの喜びが明確に視覚化されているのである。財産と健康というどちらかと言えば生活そのものに密着した世俗的な願望は、両者の充足の結果として与えられる長寿の徳を通じて、世俗的願望を離れた枯れた境地へと昇華され、むしろ家族愛という精神的なものの充足へと発展するというのが、「信貴山縁起絵巻」三巻の説話構造であろう。より単純化してしまえば、飛倉巻と延喜加持巻は在俗の境地であり、尼公巻は脱俗の境地と言っても良いであろう。こうした前二巻を最終巻が統合する構造は、別の面からも認めることができる。飛倉巻が財産を主題とすることはすでに述べた。延喜加持巻において利益として与えられる健康は、剣の護法という護法神によって病魔が払われることによって与えられる。こうした財産を与える福徳神と魔を払う護法神を兼ねるというのは、信貴山が主祭神とする毘沙門天の特質である。よく知られているように、毘沙門天はインドのク― 2 ―

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