鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
125/537

Peinture et de Sculpture,Paris, 1883, p. 240. Les Conférences..., 2006, t1. v.1 pp. 203−05, 233−38; H. Jouin, Conférences de l’Académie Royale de C.Nau, Le Temps du Sublime, Rennes 2005, pp. 167−79. 「このいわゆる入念さが、プッサンのタブローを極めて潤いのないものにするのだ。(…)そこから、統一、ぼかし、効果─それはあらゆる色彩派の画家に見出せる─の欠落、欠如が生まれている。」M. Hannoosh (ed), Eugène Delacroix Journal, I, Paris, 2009, p. 565. 「色彩派」ドラクロワは、最も偉大なコロリストのひとりであるティツィアーノが同時に素描の第一人者であるとして、素描と彩色画の調停を試みている。Ibid., pp. 1059−63. 1993年の洗浄により補筆であることが判明し、現状では銘文は見えない。《自画像》については、Rosenberg, op.cit., 1994, pp. 125−27; R. Verdi, Nicolas Poussin, London, 1995, p. 270. J. ペーヌによる複製版画(1660年?)にも同じ記銘が施されている。G. Wildenstein, “Les graveurs de Poussin auXVIIe siècle,” Gazette des Beaux-Arts, 1955, pp. 90−91. この版画は、ポワンテル没後、《自画像》の所有者となった同郷の絹商人セリジエに献じられている。セリジエはポワンテルと近しい関係にあり、プッサンの顧客のひとりとしてローマにも滞在した。恐らく、プッサンからザッコリーニの手稿の写しを見せてもらったであろう。記銘がポワンテルによってなされたのか、セリジエによるものかは不明である。 デュゲの書簡はFélibien, op.cit., 1685, pp. 318−20. ローマで活動するフランス人のタブロー画家として、北方の画家たちと一線を画するためにも、プッサンにとって、「画家ー哲学者」という知性派の立場は重要であった。T. Puttfarken, “Poussin’s Thoughts on Painting,” in: K. Scott & G.Warwick (eds.), Commemorating Poussin, 1999, pp. 58−59も参照。― 115 ―

元のページ  ../index.html#125

このブックを見る