研 究 者:清泉女子大学、國學院大學 非常勤講師 安 藤 智 子はじめにまた同時期にルグロは、1880年にはイギリスへ帰化をし、ロンドンのスレード・スクールの教授を務めていた。ルグロはディジョンに生まれ、パリへ上京してクールベのレアリスムの洗礼を受け、画家として意欲的にサロンで作品を発表していたが、ジェームズ=マックニール・ホイッスラーの進言により1863年に渡英する(注2)。そして特筆すべきは、渡英以来ルグロの支援者であったイギリス在住のギリシア人コレクター、コンスタンティン・アイオニディス(1833−1900、ギリシア名でイオニディス)にロダンを紹介したことである。アイオニディスはパリのロダンのアトリエへルグロとともに足を運び、ロダンの《考える人》〔図3、4〕を1884年に購入しており、早い時期にこの有名な彫像を手に入れた人物として記憶されている。過去の研究では、ロダン作品のイギリスでの受容について、初期段階でロダンと直に接触したコレクター、コンスタンティン・アイオニディスと、活字によってロダン作品をいち早くイギリスで紹介した美術批評家ウイリアム・アーネスト・ヘンリーの重要性が強調され、その一方でこれらコレクターと批評家をロダンに紹介したルグロに関する言及は、事実の断片的な指摘に留まっている(注3)。本稿においては、先行研究の検討に加え、これら芸術家、コレクター、批評家が交わした書簡及び同時代の美術雑誌などの新資料を参照することで、画家であり教授であったルグロが英国でのロダン作品の受容にどのように関与し、またそのことを通し19世紀フランスの偉大な彫刻家と賞されるオーギュスト・ロダン。そのロダンの彫刻作品は1880年代初め英仏海峡を渡り、ロンドンで初めて公開され、一部のイギリス人に熱狂的に受け入れられた。この一連の出来事の背景に、フランス人画家、アルフォンス・ルグロ(1837−1911)の多大な貢献があったことは意外と知られていない。1880年にオーギュスト・ロダン(1840−1917)は、美術省次官であるエドモン・トゥルケに装飾美術館の扉の制作を依頼されている。1877年にブリュッセルで制作した《青銅時代》〔図1〕が生身の人間の型を取ったものではないかという嫌疑からスキャンダルとなり、そのあとに等身大よりも大きな《洗礼者ヨハネ》像〔図2〕をパリで制作し、それらの作品がトゥルケの目に留まったのであり、この装飾美術館の扉が後に未完の大作である《地獄の門》となる(注1)。― 119 ―⑪渡英後のアルフォンス・ルグロ─ロダン作品のプロモーションとアイオニディス・コレクションの形成─
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