ベーラに起源し、財産を与える福徳神として、日本では七福神にも数えられる一方で、四天王の一尊格としても機能し、護法神としての働きも持っている。「信貴山縁起絵巻」の前二巻は、この毘沙門天の二側面に対応した説話があてがわれていると考えられるのである。そして、尼公の巻において姉の尼公を弟の命蓮に出会わせるのは東大寺の大仏である。大仏の夢告により姉が弟に再会する筋はよく知られている。ここでは、利益を与える根拠主体が毘沙門天から大仏へと移動している。在俗の境地においては、毘沙門天が対応したが、より高次の無償の家族愛に対しては、やはりより高次の尊格である盧舎那仏が対応するという説話作者達の価値判断がそこにはあると言えよう。尼公の巻の大仏殿の場面において扉の隙間からわずかに四天王として大仏を守護する毘沙門天の一部を見せているのは、そうした上下関係を暗示的に示す目的があったと考えられよう。以上のように「信貴山縁起絵巻」は、財産、健康、長寿、家族愛と言った現世的な欲望が信貴山の利益によってかなえられるという話型で一貫しており、そこには健全な現世主義とでもいうべき思考が脈打っている。従って、「信貴山縁起絵巻」においては人間が生きることは喜びに満ちており、人と人、人と世界は親和的である。命蓮と長者、命蓮と延喜帝は互いの立場を認め合い、また、姉の尼はやまれぬ思いを抱えて弟に会いに行かんとする。相互承認と他者肯定と無償の愛が人と人、人と世界の優しく調和した世界の有りようを形成している。そこには仏教的な厭世観や無常観は見られず、現世主義的な態度からすれば、むしろ道教的な世界観に近いものがあるように思われる。「信貴山縁起絵巻」は願えば望みのかなうユートピアとして世界を描こうとしているのである。それは言うなれば道教の神仙世界に近いものであろう。こうした神仙世界的性格は、ひとり説話構造の内にとどまるものではなく、視覚形式の中にも、その痕跡を認めることができるように思われる。以後この点について考察してみよう。第二章 視覚形式における神仙山水的性格第一節 剣の護法の場面最初に注目するのは、剣の護法が天空を疾駆する場面である〔図1〕。延喜加持巻の第二段にあるこの場面は、全巻中の白眉として知られている。雲に乗り輪宝を転がしながら天かける剣の護法の背後には、乗雲の尾が直線的に長く伸び、更にその末端は一旦途切れつつ揺らめく雲の尾が続いている。雲の尾の下にははるかに見下ろされ― 3 ―
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