鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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てルグロとロダンにはどのような芸術上の交流があったかを明らかにしたいと考える。1.ルグロによるロダンのプロモーション─ネットワークの活用ルグロがイギリスでロダンの作品を広めるにあたって、その契機はいつ、どこにあったのだろうか。ルグロとロダンの出会いは、1850年代にデッサンと数学の帝国専門学校(注4)においてオラス・ルコック・ド・ボワボードランの下でともに学んだことに遡る。その後ルグロが渡英したために親交が一端途絶え、それが再開するにあたっては、ボワボードランのアトリエの旧友であり、1870年代にルグロとロンドンで一緒に過ごした彫刻家ジュール・ダルーと画家ジャン=シャルル・カザンの仲介があった。当時すでにフランスに帰国していたカザンはロダンに宛てて手紙を送り、「画家のルグロ氏と銀行家のアイオニディス氏、この二人はどちらもロンドンに住んでいるのですが、月曜日の朝11時にあなたのアトリエに行くように提案しました。」と仲を取り持っている(注5)。そしてこのカザンの書簡にある銀行家コンスタンティン・アイオニディスとルグロは、ルグロの渡英後間もなく知り合っている(注6)。ルグロの友人ホイッスラーは、コンスタンティンの弟アレッコと1850年代にパリのシャルル・グレールのアトリエで出会い、その後ロンドンで、アレッコを通じてアイオニディス家と知己を得て、ロセッティ兄弟やバーン=ジョンズらを芸術家のパトロンであったアイオニディス家に紹介している。そのダンテ=ゲイブリエル・ロセッティがルグロをアイオニディス家に紹介したのであった。当時、新興の実業家たちによる美術作品の需要の高まりを見て、ホイッスラーがルグロにイギリスへ来ることを促したと思われる(注7)。ルグロの未完成の伝記及びアイオニディス家の証言から、ルグロがコンスタンティン・アイオニディスに美術品蒐集にあたっての助言をしていたことがわかる(注8)。そして1868年にルグロとホイッスラーとの不仲が決定的となった際に、父アレクサンダーと弟のアレッコはホイッスラーの側につき、コンスタンティンだけがルグロを支援することになった。彼ら二人に信頼関係があったことは、ルグロによるコンスタンティン・アイオニディス(以下アイオニディスと記述)宛ての1873年の旅行先ヴェニスからの手紙のなかで、ルグロが作品購入についてアイオニディスから全権を委任されていると記されていることからも明らかである(注9)。アイオニディスのコレクションは、1901年にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に遺贈され、92点の油彩画、750点の版画、300点の水彩画とドローイングを含み約1140点を数える。その油彩画92点― 120 ―

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