のうちルグロの作品は計5点(《マリアの月の娘たち》、《金物職人》、《告白》、風景画2点)、また版画は132点、ドローイングが54点であり、ルグロの作品が比較的に多くの割合を占めている。このようにアイオニディスとルグロとは、コレクターとアドヴァイザー、パトロンと芸術家という関係にあり、その二人がロダンのアトリエを訪ねたことになる。現存するアイオニディスからロダンへの手紙で最も早いものが1881年6月22日であり、アイオニディスはそれ以前にカザンの計らいで、おそらく1880年の終わりか1881年の早い時期にルグロとともにロダンのアトリエを訪問したと考えられる。先のロダン宛ての1881年6月の手紙では、アイオニディスは作品購入を既に決め、その値段に同意している(注10)。このアイオニディスが最初に取得したロダンの彫像は、現在《抱擁する赤子》と呼ばれる作品である〔図5〕(注11)。そしてロダンはこの年、1881年の7月から8月にかけて初めてロンドンを訪問する。ロダンはルグロからエッチングの技法を習い、《世界を動かすアモル》〔図6〕と《人体の習作》という版画を残しているが、これらもアイオニディスのコレクションに入っている(注12)。加えて重要なのは、ルグロがロダンのロンドン滞在中に詩人で美術批評家であり、マガジン・オヴ・アートの編集長、ウイリアム・アーネスト・ヘンリーをロダンに紹介したことである。ヘンリーは1880年刊行の『ユニヴァーシティ−・マガジン』にルグロに関する論文を既に発表しているので(注13)、それ以前に二人が個人的に接触をしていたと思われる。ヘンリーによるこの論文には、ルグロがシャンフルーリやレオン・ガンベッタと出会った状況や当時描いていた絵画の進行状態までルグロでしか知り得ない情報が書かれている。さらにロダンが8月にフランスに帰国してから、ルグロの生徒であったギュスターヴ・ナトープがルグロのメダル及び《船乗りの妻》という彫刻の型をパリへ持ち込み、ロダンを通して鋳造師にそれらの制作を依頼している(注14)。ナトープはその後ロダンの弟子となる。続いてルグロは12月半ばからの一ヶ月間パリに滞在し、この時に、ロダンはイギリス滞在中に着手していた《ルグロの胸像》〔図7〕を完成させ、またルグロはロダンの肖像画〔図8〕を描いている(注15)。1883年3月にルグロとアイオニディスは再びパリのロダンのアトリエを訪ね(注16)、この時に制作途中の《地獄の門》を見る機会があったであろう(注17)。そして5月にはロダンが再びロンドンを訪問する(注18)。同年12月7日のヘンリーからロダンの書簡では、― 121 ―
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