「アイオニディスはずっと、そのグループ像を大変喜んでいます。私があなたにお伝えするようにルグロから任されたのですが、その値段についてはダルーの意見を聞くべきだということです。もしダルーが成功で自信に溢れ、あまりに高い値段をあなたに提言したら、考え直してください。考えた後にあなたが正しいと思う範囲で値段を下げてください(注19)。」というルグロからロダンへ伝言が書かれているが、ここでグループ像と呼ばれている《パオロとフランチェスカ》について、ルグロはアイオニディスとロダンの間の値段設定の仲介をしていたことがわかる。さらに1884年3月10日付け書簡でヘンリーはロダンへ、「ユゴーの半身像については、ルグロのルートによってあなたに戻す手配を私がしました。それについては昨日、日曜日の朝にルグロに話をしておきました。その同じルグロに私が任されたことは、彼の代わりに有りたけの友情の気持ちを貴方に送ることと、そして貴方の《青銅時代》をずっと待っていると貴方に伝えることです。ルグロによると、私も同様なのですが、芸術家や批評家たちに見せるのにルグロの手元に《青銅時代》を少しの間保管するため、貴方は《青銅時代》をできるだけ早く発送するべきです(注20)。」と述べている。この後4月下旬に《青銅時代》〔図1〕はロイヤル・アカデミーに展示されるが、この書簡に見られるヘンリーを介してのルグロとロダンのやり取りは、英仏海峡を渡るロダンの作品についてルグロがイニシャティヴを取っていたことを示している。そしてルグロとヘンリーは、ロダンの作品がイギリスの芸術家や批評家たちの目に触れ、彼らの世評を形成することが重要であると考えていたことが確認できる。ヘンリーもまた、批評家・編集者として同じく『マガジン・オヴ・アート』の編集者であるモンクハウスとともにロダンの作品を次々と紹介していく。著作一覧〔表1〕からもわかるように、ルグロとロダンの接触がより多く認められる1881年から84年の間に、ルグロ、アイオニディスのコレクション、ロダンに関する記事がほぼ連続して刊行されている。1883年には《洗礼者ヨハネの胸像》〔図9〕が版画となって雑誌に掲載され、これによって初めてイギリスでロダンの作品が視覚化されたことにな― 122 ―
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