鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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る(注21)。さらに1884年には3回に渡ってモンクハウスによるコンスタンティン・アイオニディスのコレクションの記事が掲載される。その2回目の「リアリスト」というタイトルの記事では、ルグロ、ダルー、ギョーム・レガメー、レオン・レルミットが紹介され、それに続いて同じページに、ヘンリーによるロダンのヴィクトル・ユゴーの胸像についての記事が始まる。このような一連の記事の構成には、ルグロ、ロダン、ヘンリー、アイオニディスの親密な人間関係が反映されている。そして1884年の12月にアイオニディスの手元に《地獄の門》のダンテである《考える人》〔図4〕が届き、これに対しアイオニディスは4000フランをロダンに払っている(注22)。この時点でルグロの関与したロダンのプロモーションは一段落し、《考える人》を最後にアイオニディスのコレクションには合計5点のロダンの作品が加えられたことになる(注23)。2.ルグロによるロダンのプロモーション─展示戦略次に1882年にロダン作品がイギリスで初めて公開されるあたっての展示戦略に目を向ける(注24)。この時ロダンとルグロは、ロイヤル・アカデミーとグロヴナー・ギャラリーのほぼ同時期開催の両方の展覧会に展示している。ロイヤル・アカデミーでロダンは《洗礼者ヨハネの胸像》をルグロは《船乗りの妻》を、さらにグロヴナー・ギャラリーでロダンは《鼻のつぶれた男》と《ルグロの胸像》を、ルグロは2点の彫刻と7点のメダルを展示している。これら両展覧会はルグロにとっては初めての彫刻作品の発表の場であった。ルグロは渡英してからロイヤル・アカデミーの展覧会に度々出品した経験を通じ、このような展示方法に帰結したと思われる。過去のルグロの作品の展示状況について、その悲惨さを伝えている記事は、一つではない。アイオニディスのコレクションにある絵画で、1874年のロイヤル・アカデミー出品作である《金物職人》〔図10〕は、展示においてアカデミーから不当な扱いを受けていたと断言されている。例えば雑誌『アシィーニアム』では、「その芸術と芸術家を知らなかったことのみが、その屈辱的な場所─おべっかつかいたちがこの素晴らしい作品を視線より上に、光が当たらない、二級の部屋に設置したのであるが、それに対してアカデミシャンが申し開きのできる唯一のお詫びである。」とある(注25)。また同展示に関して『アート・ジャーナル』でも、「ルグロ氏ほど展示される作品の配置を任されている人たちに不当に扱われた画家は他にいないだろう。彼の手による上手な絵画は講義室の天井近くに掛けられ、そこの《金物職人》は視界からあまりにも遠いため、この絵画の美点が見過ごさ― 123 ―

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