れる危険にさらされている。」とある(注26)。さらに1880年のヘンリーの論文は、長年のロイヤル・アカデミーでのルグロ作品の劣悪な展示状況がルグロの名前を広める障害となってきたこと、しかし、ルグロの友人であるクッツ・リンゼイがグロヴナー・ギャラリーを1877年に開設し、ルグロの作品もこのギャラリーで初めて良い環境で鑑賞できるようになったと伝えている(注27)。この全ての芸術家にオープンなギャラリーは、バーン=ジョーンズやホイッスラー、ワッツといったアカデミーの展覧会に参加しない画家たちの作品を発表し、新しい芸術を大衆に見せる活気のある展示空間であった。このような経緯からルグロは、ロイヤル・アカデミーに作品を提出しつつ、グロヴナー・ギャラリーに良い展示空間を確保するという方法に行き着いたと思われる。そしてロダンもルグロのこの展示戦略を踏襲している。ロダンは、1882年のロイヤル・アカデミーの展覧会で《洗礼者ヨハネの胸像》〔図11〕を発表する。大型の洗礼者ヨハネのイギリスでの公開を視野に入れた一歩であったが、この半身像は良い場所に置かれることなく(注28)、翌年にはルグロのアトリエで展示された結果、エドモンド・サイモンという画商を通じて売却されている(注29)。その一方でグロヴナーの展示は成功を収める。8月18日付けの手紙でルグロはロダンに、「マスク」と呼ばれる《鼻のつぶれた男》〔図12〕はレイトン■に購入され、自分の肖像〔図7〕はアイオニディス氏の元へ行ったことを、そして《洗礼者ヨハネの胸像》はルグロのアトリエにあることを報告している(注30)。《鼻のつぶれた男》は、ビビという下働きの男をモデルとし、1864年に制作され翌年のパリでのサロンに落選した作品である。当時ロイヤル・アカデミーの長であったレイトンがこの彫像を購入し、自邸に飾っていたことは当時のイギリス美術界の複雑な状況を示している(注31)。レイトンに続きアイオニディスもこの彫像を買い求め、さらにロダンはルグロやヘンリーにこのマスクを贈呈し、ロダンの初期レアリスムを具現化した《鼻のつぶれた男》はイギリスでのロダン受容を象徴する作品となる(注32)。そしてルグロはロイヤル・アカデミーに《船乗りの妻》を展示する。この母子像は、祖国フランスへの愛国心を表明した《海の祝別式》(1873年ロイヤル・アカデミー出品作)に描かれた母子像を起源に持つ、ルグロにとって長年構想してきた主題であり、ダルーの母子像との関連性も明らかである(注33)。このノルマンディー地方ブーローニュの民俗衣装を纏った母と子供の像は、『マガジン・オヴ・アート』に掲載される〔図13〕(注34)。先のロダンの《洗礼者ヨハネの胸像》と同様にアカデミーへの出品作が紙面で大きく複製されていることに、ヘンリー、ロダン、ルグロの意図を読み取ることができる。加えてこのグロヴナー・ギャラリーでの、ルグロによる― 124 ―
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