《死神ときこり》、《泉》の2点の彫刻作品と、ロダンにパリでの鋳造過程を依頼して完成したキャスト・メダル(注35)の展示は、実験的な試みであったと同時にロダンとの関係性を示している。これら最初に鋳造されたメダルのうちの一枚は、アイオニディスの肖像で、その裏面には「C A アイオニディスへ、Aルグロの友情によって制作、1881」という印があり、当時の彼らの親密さを記している〔図14〕。翌年1883年5月にロダンは、ダッドレイ・ギャラリーで大きなサイズの《洗礼者ヨハネ》〔図2〕とアイオニディスがすでに所有していた《抱擁する赤子》〔図5〕の彫像を含む6点を展示する(注36)。ダッドレイ・ギャラリーもまたグロヴナー・ギャラリーと並んで、ロイヤル・アカデミーに対抗するギャラリーであった。この時のダッドレイ・ギャラリーについてルグロが関与した記録は見つからず、この頃ルグロはロダンから少し遠のいた感もある。しかしルグロは1884年にロダンがロイヤル・アカデミーに出品した《青銅時代》〔図1〕を展示する前に一時手元に預かり、芸術家や美術批評家に見せようとしたことは先に述べた通りである。かつてスキャンダルになるほどの写実性を持つ《青銅時代》もまた、ロイヤル・アカデミーの展覧会では一方向からしか見えない悪い場所に設置されている(注37)。この後1886年のロイヤル・アカデミーにロダンが提出した《田園詩(L’Idylle)》が落選し、これに対し論争が巻き起こることは、先行研究において繰り返し論じられている(注38)。この論争を経て、1900年代に入りロダンは国際的な名声を手に入れ、1902年には《洗礼者ヨハネ》が一般からの寄付によってサウス・ケンジントン(現在ヴィクトリア・アンド・アルバート)美術館に取得された(注39)。これを記念して大祝賀会が催され、ルグロはヘンリーとともに出席している(注40)。渡英後からのルグロのロイヤル・アカデミーへの参加は、1882年の母子の彫像で終止符を打つ。ルグロはほぼ毎年作品を提出し続け、それに対するアカデミーの反応を冷静に観察していたとも言える。とくにアカデミーに提出する作品をヘンリーやモンクハウスを介し紙面に掲載したことからもわかるように、ロダンとともにアカデミーに作品を提出することで、ロイヤル・アカデミーの不当と思える作品評価を世間に公表すること、それこそがルグロの戦略であったと思われる。そのように考えると、1886年のロイヤル・アカデミーの落選を発端にしたロダンにまつわる論争こそ、ルグロとロダンが意図していたことだったかもしれない。結び以上のように1881年から1884年にかけて、ルグロは自分のパトロンであるアイオニ― 125 ―
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