注⑴ロダンの当時の状況については、以下の文献を主に参照。Ruth Bulter, Rodin: The Shape ofGenius, New Heaven and London, Yale University Press, 1993, pp. 108−149; Frederic Grunfeld, Rodin: ABiography, New York, Henry Holt and Company, 1987, pp. 125−133.⑵ルグロの生涯については、以下の文献を参照。Alexander Seltzer, Alphonse Legros, The Developmentof an Archaic Visual Vocabulary in Nineteenth Century Art, Ph.D. dissertation, The University of NewYork at Binghamton, 1980; Timothy Wilcox, Alphonse Legros (1837−1911) Aspects of his life andworks, M. Phil. thesis Courtauld Institute of Art, University of London, 1981; Timothy Wilcox, AlphonseLegros, cat.exp., Musées Beaux-Arts de Dijon, 12 déc. 1987 − 15. fév. 1988.⑶ロダン作品のイギリス受容については、主に以下の文献を参照。Rodin, exh.cat., Royal Academyof Arts, London, 23 Sep. 2006−1 Jan. 2007, Kunsthaus Zurich, 9 Feb.−13 May 2007; Andrew Watson,‘Constantine Alexander Ionides: Rodin’s first important English patron, Sculpture Journal, Vol. 16,No.2, 2007, pp. 23−38; Rodin, the Zola of sculpture, edited by Claudine Mitchell, Hampshire andVermont, Ashgate, 2004; Ruth Bulter, Rodin: The Shape of Genius, 1993, pp. 163−178.⑷フランス語の名称はEcole Impériale Spéciale de Dessin et de Mathématiques。ディスをロダンに紹介し、ロダン作品が購入されるまでを見届け、さらには懇意にしていた批評家ヘンリーをロダンに紹介し、ヘンリーとともにロダンの作品の活字媒体による宣伝を積極的に行った。またルグロは、ロダンとともに1882年にはロイヤル・アカデミーとグロヴナー・ギャラリーの両方に作品を展示することによって、アカデミーを挑発しながら購入促進のための展示を行い、ロダンの作品のプロモーションに努めたのである。ルグロとロダンによるこれらの活動の根底には、芸術家個人としての共感のみならず、ルコック・ド・ボワボードランのアトリエの出身者の連帯感があったと思われる。ルグロは、1870年代前半において、政治亡命でロンドンに来た同アトリエの旧友であるダルー、レルミット、レガメーを支援するために、アイオニディスに彼らの作品を購入させている(注41)。この時ルグロは渡英してきたダルーとカザンとともに、フランス的な要素を取り入れた美術学校をイギリスに設立することを目指していたのである(注42)。ルグロのボワボードランのアトリエを理想とした美術教育への関心は、アイオニディスとヘンリーの賛同をも得ていたのであり、彼らは同時代のフランス美術をイギリスに普及する社会的意義をも意識していたと考える。そしてイギリスにおいてもアカデミーと闘ってきたルグロは、ロダンのアトリエを訪れたときに、ロダンの彫刻がロイヤル・アカデミーという体制に一石を投じることのできる強い力を持っていることを確信したと思われる。そこでルグロはロダンのプロモーションを戦略的に行い、ロダンがイギリスで成功するための道を切り開いた。― 126 ―
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