リードレンダー)が形成されている。前景の人物と厳密な装飾パターン、そして典型的なマニエリスム風の裸体像や姿勢など特徴とするこれらの作品は、ヴァザーリ流のアカデミズムの代表作とされる。Ⅱ.「ストゥディオーロ」の画家たちからストラダーノへの影響ストラダーノに関しては、1997年にA・B・ヴァンヌッチによる総目録、そして2008年にM・リースバーグ編纂による3巻の版画総目録が出版されている(注4)。また2008年には、初めてストラダーノに焦点を当てた展覧会がブリュージュで開催された(注5)。「メディチ家の宮廷画家」と題されたこの展覧会には、122枚の素描を中心に、油彩画、フレスコ画、タペストリー、版画といった多岐にわたる彼の作品が集められた。その後フィレンツェに戻ったストラダーノは、ヴァザーリが総監督をつとめたパラッツオ・ヴェッキオの大規模な装飾事業やポッジョ・ア・カイアーノの別荘の装飾に参加している。特にパラッツオ・ヴェッキオの「レオ10世の区画」(1555−62年)の装飾では、《サン・レオ攻略》〔図3〕などメディチ家出身者の偉業を称える一連の歴史画をヴァザーリと共に描いた。これらの歴史画のためにヴァザーリが描いた下絵素描と完成作を比較すると、《サン・レオ攻略ための素描》〔図4〕のように、背景、とりわけ遠景の山の形などに違いがあることがわかる。このような違いは2人が共同制作した他の作品にもしばしば見られる。そのため、実際の制作では前景の人物と兵士群をヴァザーリが、山や城の風景をストラダーノが担当していたと考えられている。一方、ストラダーノが単独で制作したのは、《今日のフィレンツェ》〔図5〕や《ポッジョ・ア・カイアーノに到着するエレオノーラ》〔図6〕など、風景画やコジモ1世の時代に実際におこった出来事を描いた作品である。こうした作品で彼は、史実を記録するために鋭い現実観察を特徴とするフランドル的な様式を採用している(注7)。それに対して、1561−62年に制作されたパラッツォ・ヴェッキオ内の「エレオノーラの区画」では、彼は神話主題をより均整のとれた画面構成で描いている。こうした人1523年にブリュージュで生まれ、1545年頃にはアントウェルペンで親方となったストラダーノは、1546年にコジモ1世からメディチ家の綴れ織り工房(ArazzeriaMedicea)のための下絵制作を依頼され、フィレンツェに赴いた(注6)。そして1550年までフィレンツェに滞在した後、ローマに移って3年間ヴァチカンのベルベデーレ宮の装飾に携わった。この時ミケランジェロの裸体表現を熱心に学んだことが、残された多くの素描によって確認できる〔図2〕。― 134 ―
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