研 究 者:宮城学院女子大学 学芸学部 教授 森 雅 彦宮廷社会は相反し矛盾しあう二重のダイナミクスを秘めている。そのひとつは、カスティリオーネの『宮廷人』に見られるように、宮廷人の目的は君主に仕えることであり、それも倫理的、人間的行為の導者として、徳を高めるというイデアルな〈gentiluomo〉の心性である。そこでは美しいプラトン的愛もまた、徳の象徴として重視される。しかしこれには常に裏面も存在する。フェラーラ宮廷のトルクァート・タッソの対話篇『マルピリオ』のように、宮廷人に必須の徳は慎重さであり、君主の怒りや宮廷人の嫉妬を買わないよう、自己を隠し、擬態によって生きるしかないという、冷厳な苦いリアリズムの発想である。現実には宮廷人はこのふたつのポールの間を揺れ動いて生きた (注1)。フィレンツェという宮廷社会にあったマニエラの彫刻家たちもまたそうである。彼らはコジモ1世から委嘱を得ることを不可欠の命題とし、このため様々な人脈、党派を築いて影響力を行使しようと、自薦、他薦のあらゆる手段で自己の作品と能力を売り込もうとした。しばしば推薦状も残っているのは不思議でないし、バッチョ・バンディネッリの自己宣伝はその典型である。彼はトリボロやベンヴェヌート・チェリーニと常に対立した。サン・ロレンツォ聖堂の《ジョヴァンニ・バンディ・ネーレ記念碑》(1540年)はトリボロから取り上げたものであり、素描の名手という評価もあって、彼は常にコジモにそれを見せようと図った。チェリーニ自身、自身で作品を制作しては宮廷に伺候して委嘱の獲得に執心していた。また公衆の世界においても、この時代、芸術作品を批評するという姿勢は、広範に広まった。その手段も様々で、ヴィンチェンツオ・ダンティの場合、彼は1562年頃、チェリーニの《キリスト磔刑》に二つの称賛のソネットを書いている。もともと反バンディネッリ派の急先鋒チェリーニはベネデット・ヴァルキと親しかったし、ヴァルキはダンティとも親しかったから、それは手放しの称賛かもしれないものの、しかし仮象の本心を隠した外交辞令のソネットとも受け取れるように思われる。慇懃無礼なベンヴェヌート(ようこそ)の懸詞ではじまるソネットはこうである。ようこそ天から、ようこそおいでなさいました神の像を携えて、気高いこころで― 143 ―⑬ヴィンチェンツオ・ダンティあるいは彫刻家の生態誌─《ネプトゥヌスの噴水》から《虚偽に勝利する名誉》へ─マニエラの彫刻家の生態
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