鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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■■■■1560年前後の盛期マニエラの彫刻家たちにとって、シニョリーア広場は特別の意味を持っている。そこにはすでにドナテッロの《ユディットとホロフェルネス》やミケランジェロの《ダヴィデ》、バンディネッリの《ヘラクレスとカクス》、チェリーニの《ペルセウス》などの彫像が設置されていた。それゆえその場所は、フィレンツェ彫刻の象徴とも言うべきもので、広場に新たに設置されるはずの《ネプトゥヌスの噴水》は、他とは違った重みを持っていた〔図2〕。この世にあなたになさった真の像をキリスト者の間に作りなすために。かくも気高いものを彫られるからには誰にでもキリストはいませりと見えるのです贖われたこころだったものを見るなら、技芸と主題を付け足したならば、確かにわたしは見るのです、最後の吐息の出るのを聖なる唇から。わたしには彼は肉あるいは石かどうかもしかと分からないのです、分かるのは美しい作品なこと魂を目覚めさせられるような、その罪はどうか苦しみ悲しいのを見るままにしてくださいまさに真の技芸を見る思いなのですから(注2)。これは特に優れた詩というわけではない。しかし、そこにダンティのチェリーニに対する阿諛追従のポーズを見ることも、決して的外れではないだろう。マニエラの彫刻家たちの相対した《ネプトゥヌスの噴水》〔図1〕をめぐるコンクールは、こうした仮面のエゴ同士の確執という意味でも再考に値する。もともとこの企画自体は、すでに1550年以来バンディネッリの手で考えられており、アンマンナーティやチェリーニの請願で彼らも自らの模型制作に関与したものの、1559年末にはバンディネッリの手で実現の運びとなることに決定していた。しかしバッチョが1560年2月に逝去すると、ローマ在住の彼の弟子ヴィンチェンツォ・デ・ロッシは、1558年以来のバンディネッリの度重なる帰国要請に対して、これを無視していたにもかかわらず、手のひらを返したようにジュリアーノ・チェザリーノや― 144 ―

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