鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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10月14日付のミケランジェロ宛書簡はこう伝えている。ジロラモ・モレッリを介して、バンディネッリの仕事を引継ぎ完成したいと願い出、コジモに丁重に断られている(注3)。コジモはおそらく、まずはアンマンナーティに模型制作を委嘱した。しかしこれを仄聞したチェリーニの抗議を受けて、新たなコンクールという事態に立ち至ったのである。第二のコンクールの模型制作に実際に関与した彫刻家はアンマンナーティ、チェリーニ、ジャンボローニャ、ダンティ、そしてフランチェスコ・モスキーノである。このうちアンマンナーティとチェリーニは、ロッジア・ディ・ランツィで制作を進め、ジャンボローニャはサンタ・クローチェ聖堂のロッジアで、またダンティはオッタヴィアーノ・デ・メディチの邸宅で、モスキーノはピサで制作に従事していた(注4)。委嘱を獲得したのはアンマンナーティである。しかし、コンクールの結果は最初から彼とチェリーニの帰趨如何だったに相違なく、しかもアンマンナーティの大理石彫刻家としての名声は、パドヴァの巨像《ヘラクレス》〔図3〕その他の経験でも実証されていたから(注5)、チェリーニの比でなかったことは明らかな以上、コンクールは結論を先取りした儀式─体よくチェリーニを排除するアンフェアなコンクール─であったと見ることも、あながち不可能でなかろう。今回のフィレンツェ国立古文書館(ASF)でのアーカイヴ資料再調査は、結果としてこうした力学関係を投影していると判断された。すなわち、アンマンナーティは1560年3月9日、チェリーニはさらに遅れて4月6日、ジャンボローニャは5月20日に、模型に必要な材料のための最初の支払いを受けている。またアンマンナーティはミケランジェロ、ヴァザーリとの親密さを利用して、ヴァザーリを通してローマで彼の案を巨匠に見せるという裏技を使っている。いずれにせよ、この両名のみロッジアでの模型制作を割り当てられたことは、委嘱の競争の実質がこのふたりの帰趨如何にかかっていたために他ならず、アンマンナーティ、チェリーニ、ジャンボローニャが模型を完成したとき、コジモは前二者のそれの検分に赴いただけだった(注6)。レオーネ・レオーニはやや侮蔑的、冷笑的な気持ちでこの顚末を見ていたらしい。アンマンナーティは大理石を自分の工房に運ばせました。ベンヴェヌートはかっかしており、悪口をばらまいています。彼の眼からは炎が燃え上がり公爵を口で嘲っています。四人のひとがこれらの模型を作りました。アンマンナーティ、ベンヴェヌート、ペルージア人〔ダンティ〕、ジャンボローニャというフランドル人です。アンマンナートは、自分はよくやったと言っています。しかしわたしは― 145 ―

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