鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
156/537

彼の模型を見てはいません。彫られる場所に大理石を移送する準備で、覆われているからです。ベンヴェヌートはわたしに彼の模型を見せてくれました。遺憾ながら、老齢の彼は粘土やぼろで病気がちになっています。ペルージア人は若いのによくやりました。しかし反響はありませんでした。フランドル人は費用の点で退けられました。しかし彼は粘土をたいそう美しく作りました。巨像コンクールについて申し上げるのは、こんなところです(注7)。レオーニのチェリーニに対する厳しい評価は、彼とチェリーニがライヴァルの間柄だったことを勘案して考えねばなるまい(注8)。またチェリーニの『自伝』の証言はコンクール後のことであるから、その発言は自己弁護を含んだものと解釈すべきだとしても、大公妃エレオノーラとの確執もあって(チェリーニは彼女の歓心を買おうとするあまり《キリスト磔刑像》を贈与することすら考えた)、自己の勝利を必ずしも確信していなかったように見える。『自伝』によれば、彼は、アンマンナーティとヴァザーリがはじめから結束して勝利をアンマンナーティに導こうとしていると疑っていた。「〔わたしが模型制作に当たっていたときのこと〕公爵が宮殿から降りてくると、画家のジョルジェット〔ヴァザーリ〕は公爵をアンマンナート[原文ママ]の仕切りへと案内した。ジョルジーノ〔ヴァザーリ〕自ら、何日もかけてアンマンナートとともに、そして助手たち総出で手掛けていたネプトゥヌスなのであった」(注9)。とすれば、ヴァザーリ自身すでに1560年2月のバンディネッリ逝去の段階で、コジモにアンマンナーティを推挙していたことも、私見では大いに(いやほとんど疑いなく)予想しうることだと考えざるをえない(注10)。そのチェリーニが残した年代不詳のソネット断片(CXXXIX)は、意味不明ながらチェリーニ研究史上もきわめて興味深いものがある。ヘラクレスはアンタイオスを持ち上げ、やがて投げ飛ばした。泥棒は雌牛と雄牛を盗んだのだから。いまやわたしたちの間でよりよいのはこれだ彼はその両者を三度も投げ飛ばしたのだから。彼はわたしを無理やり、わたしの気高い仕事から身を引かせたので、彼には雄牛があり、バンディネッリと従僕どもには雌牛があり、― 146 ―

元のページ  ../index.html#156

このブックを見る