鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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グリフォンは蟹をつかんで、それを投げ飛ばした(注11)。一説に断片は、カステッロにあるメディチ家の別荘の《ヘラクレスの噴水》に対する暗示であるという。ヴィンチェンツオ・ダンティはこの噴水のための《ヘラクレスとアンタイオス》の鋳造に三度失敗し(むろん、三度も投げ飛ばすの〈gittare /gettare〉は、投げ飛ばすばかりでなく鋳造するの意もある)、結果アンマンナーティに委嘱されたからで〔図4〕、この解釈は、ペルージア市の象徴としてのグリフォンをダンティ、蟹をチェリーニとしつつ(この読解は若干の資料から相応の根拠を持つ)、断片はチェリーニの支援の申し出をダンティが拒否したことを示唆していると読む(注12)。もっともカステッロの仕事でチェリーニは彼を支援しようとしたという記録が知られるわけではない。他方、チェリーニには誰の眼にもこの断片とたいそう類似しているとしか思えない詩(ソネットLXI)があって(注13)、その第三連目に「お前も警戒しろ、大なるネプトゥヌス、わたしはお前を守れない/バンディネッロの鑿から逃れられるとしても、こいつ〔おそらくアンマンナーティという解読は正しい〕はもっと獣じみているのだ」とあることを想起すると、上記断片も《ネプトゥヌスの噴水》の顛末と関連する蓋然性は高い(注14)。すなわち、ここで従来の文学研究家のフィロロジカルなテクスト批判の詳細や、それに対するわたしなりの異論や解釈はあえて省略するにしても、少なくともこのチェリーニの詩篇断片は、マニエラの彫刻家たちを巧みに毒づいたソネットだったと見なさざるをえない側面は間違いなくあるに違いない─そして皮肉なことに、1561年2月6日以降着手されたアンマンナーティの彫像、ビアンコーネの名で呼ばれることになる彫像にも、件のフィレンツェの辛辣なシニシズムの批判が寄せられたのである(注15)。コンクールに参加した彫刻家のうち、『美術家列伝』の証言を信じれば、最も評価されたのはジャボローニャの模型だった。彼はコジモ1世の長男フランチェスコ・デ・メディチ(1541−1587)を動かしてコンクールに参加したが、しかしこの頃ジャンボローニャはまだ大理石巨像の彫刻家としては未知数であったから、彼に委嘱の回ることはまずありえなかったに相違ない。彼がフランチェスコから初期の代表作《サムソンとペリシテ人》を委嘱されたのは、このコンクール後のことである。他方ダンティに対する「彼は若いのによくやりました。しかし反響はありませんで― 147 ―マニエラの彫刻あるいは《虚偽に勝利する名誉》

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