鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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した」というレオーネの言及はどうであろう。この点で注意を喚起したいのは、少なくとも現在までのところ、ダンティの模型に対する支払いの類は一切知られていないことである。私見では、おそらく支払いはなされなかったのであり、このことは彼が自費で模型制作に参与したか─ルネサンスの彫刻家は自費で制作してからそれを売り込むなり、新たな委嘱を得ることがまれでないことを想起すべきである─有力者の後押しを得て参加したかの可能性を暗示する。さらに注目したいのは、ダンティは模型をアレッサンドロ・オッタヴィアーノ・デ・メディチ(1535−1605)の館で制作しており、彼のみが公の場所を提供されず、メディチ家重臣の館で制作しているという事実である。当時まだ20代のアレッサンドロは芸術に明るかったメディチ家の繋累オッタヴィアーノ(1484−1546)の子息にして、後の教皇レオ11世であり、さらに支払いが行われなかったという事実と合わせ考えれば、従来奇妙に思われつつ等閑に付されてきた事態の謎は意外なほどのものでなく、私見では事実はこうだったのだと思われる。すなわち、ダンティは新世代のジャンボローニャもコンクールに関与すると知って、ジャンボローニャにとっての若きパトロン皇太子フランチェスコ同様、青年アレッサンドロのような人物を介して(おそらく実際には後述する宮廷人スフォルツア・アルメーニの後ろ盾を通して)コンクールに参加できるよう取りなしてもらったのに相違なく、またダンティの参与は私的な性格のもので、それはコンクールがひとり歩きしてしまった段階では、かえって競争の疑似的な開明性、公平さを装うために宮廷もあえて反対する必要を認めなかったということである。ダンティは強く参加を望んだのだろう。ヴァザーリはこのことをよく知っていた可能性がある。ダンティは「大理石を獲得したかったのではなく、自分の勇気と才能を示したくて参加した」(注16)と実に含蓄に富む記述をしている。換言すれば、ダンティは勝利を期待したのではなく、仮面と社交術の世界で差しあたって、着実な地歩を固めておきたかったのである。とまれダンティはさらに《ネプトゥヌスの噴水》の模型制作の時期に、おそらくすでにマニエラの彫刻を代表する《虚偽に勝利する名誉》〔図6〕に着手し始めていたに相違ない。ダンティのコンクールに対するややあいまいな姿勢は、彼の慎重な人柄のみならず、この機会を彼に提供した同じペルージア出身の重臣スフォルツア・アルメーニのための仕事という後ろ盾があったからでもあろう。1561年の年記を有する、同郷出身のティモテオ・ボットーニオのソネットには、以下のようにあるので、《虚偽に打ち勝つ名誉》という題名が当初からのものであることは明らかである。■■■■■■■■― 148 ―■■■■

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