鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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注⑴A. Bonadeo, “The Function and Purpose of the Courtier”, Philological Quarterly, L, 1971, pp. 36−46. L.Martines, The Gentleman in Renaissance Italy, in R. S. Kinsman (ed.), The Darker Side of theRenaissance, Berkley, 1974, pp. 73−93.⑵Cfr. A. Mabellini, Delle Rime di Benvenuto Cellini, Firenze, 1892, pp. 326−327, 329−330.⑶L. A. Waldman, Baccio. Bandinelli and Art at the Medici Court, Philadelphia, 2004, pp. 758−759, nos.⑷Vasari-Milanesi, VI, pp. 191−192. モスキーノの参与はチェリーニの『自伝』の証言のみ。⑸A. Cherubini,, “Su Bartolomeo Ammannati, scultore fiorentino e architetto”, in L’acqua, la pietra, ilfuoco, Bartolomeo Ammannati scultore, Firenze, 2011, pp. 47−93.⑹Vasari-Milanesi, VI, p. 192.⑺E. Plon, Benvenuto Cellini, Paris, 1883, p. 236.⑻K. Helmstutler Di Dio, Leone Leoni and the Status of the Artist at the End of the Renaissance, Surrey(UK) / Burlington, VT (US), 2011, pp. 71−105.⑼B. Cellini, La Vita, II, ci.1334, 1335, 1337, 1338.きたい。ダンティによれば、芸術の目的とはそもそも「自然を模倣しつつ、いわば自然の事物を変形すること以外の何物でもない」(注17)のであって、《虚偽に打ち勝つ名誉》の場合なら、彫刻はまさしく造型モティーフの意図した「選択」によって〔図8〕、凝縮された変形/構成の可能性を巧妙に提示するのだ(注18)。美は─《虚偽に打ち勝つ名誉》の若者同様〔図9〕─あらゆる年代の人間に生じうるものの、主に青年期の状態のうちにこそ輝いている(注19)。また優美は内なる人体美の一部であって、「絵画なり彫刻なりで人間をかたち作らなければならない場合、完全な比例の他にも、たいそう重要なものとして、特に姿勢や動作のうちにこの優美を必要とする」(注20)のである。こうしたダンティの求める芸術とは、単なる現実再現ではない。アリストテレスの『詩学』に負いつつ、彼はこう述べる。「写すことと模倣することは、ちょうど歴史を記述することと詩を制作することと同じくらいに異なる」(注21)のであって、「一方は事物を見えるままに完全にし、他方は見られるべきように完全にする」(注22)─すなわち、修史家は完璧なる真像を写し(=再現し)、詩人は完璧であるべき似像を創る(=模写する)という芸術至上主義の屈折したハイパー・クラシズムの美学なのである。約言すれば、芸術は詩のようにイデアルな完全性を巧みに求めるものなので、おそらくミケランジエロのみならず、バンディネッリやチェリーニからの影響すら感じさせる《虚偽に打ち勝つ名誉》は〔図9、11〕、こうしたマニエリスム美学最初の芸術理論家の美意識の証言者としても見られるべきものであろう、■■■■■■■■■■■■イミターレ― 151 ―■■■■■■■■■■■

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