注⑴ 泉武夫『躍動する絵に舌を巻く 信貴山縁起絵巻』(小学館、2004年10月)、68頁。⑵ 泉武夫「飛来する仏」(前掲注⑴『躍動する絵に舌を巻く 信貴山縁起絵巻』)。⑶ 前掲注⑵泉氏論考。⑷ 「図56 雲気神獣図」(『世界美術大全集東洋編2 秦・漢』、小学館、1998年9月)。⑸ この間をつなぐ雲気表現としては、五世紀後半の河南省鄧州市学荘村彩色画像塼墓出土の「吹笙鳳鳴図」〔図7〕が考えられる。この作品では、雲は三段に分かれてはいるが、全体として直線的に長く尾を引く雲気に乗って鳳凰が呼び寄せられ仙人の前へ移動してきている。「信貴山縁起絵巻」でも雲を二段に分け、末尾の方は軽く波打つようにして雲が柔らかく崩れてゆく時間の経過を表現しているが、「吹笙鳳鳴図」では三段に増えつつも、同様に末尾の部分を軽く波打たせて雲の筋が崩れてゆく時間経過を表現している。 そして、一番手前の鳳凰が乗る雲気は、鳳凰の長い尾のカーブに合わせるように急なカーブを描き、その効果によって、全体として三段の雲気は線遠近法的に徐々に太さを増して行くように見え、はるか遠くから素早く鳳凰が現れたことを感じさせる。その極端な遠近表現とスピード感は、やはり「信貴山縁起絵巻」剣の護法の疾駆の場面と要素的に共通するものがある。 雲気の線が連続的に循環し平面上の文様としての性格を脱していなかった馬王堆の「雲気神獣考えられよう。それはまた、陶淵明の表現によれば、桃源郷へ至る道が、むせかえるような桃の林に包まれながら、その先にある閉ざされた小口を通り抜けると豁然として広大な風景につながるのと同じ構造である。霧に閉ざされた空間は、視界を奪われた状態から豁然と開けることによって場面転換の効果を生み、異質な空間を移動した時間的変化の感覚をもたらすのに対し、「煙江畳嶂図巻」は、開放され均質に広がる基礎的空間が設定されている中で、モチーフ相互の距離的隔たりを強調的に表している。両者ともに、神仙山水の表現形式の一つを共通の遡源として持っていると考えられるが、説話画的興味と山水画的興味の相違に従って、空間の開閉の効果が選択的に使い分けられたのであろう。おわりに以上のように、東アジア的観点から見た場合、「信貴山縁起絵巻」は、神仙山水的要素が、説話の構造とその視覚的表現の両面において色濃く残っていると言え、このことは、この絵巻の古代的性格を物語っていると考えられる。それに対して、「伴大納言絵巻」は、神仙的なものよりも人間中心の物語であり、視覚的にも神仙的なものは登場しない。こうした人間中心的な傾向は、中世的な傾向と考えられる。というのもこうした神仙から人間への関心の移行の延長線上に、中世に顕著な肖像画の発達をもみることになると考えられるからである。― 7 ―
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