─1918年から1925年までを中心に─研 究 者:大阪府立大学大学院 人間文化学研究科 博士後期課程 単位修得退学市 川 直 子はじめにジョルジョ・デ・キリコ(1888−1978)は、1910年頃から描きはじめた自らの作品を「メタフィジカ絵画」と呼んだ。彼によれば、事物には普通の側面とメタフィジカ的な側面があり、後者は、事物と人とを繋ぐ論理の糸が断たれたときに見えるという(注1)。そうした意味連関の切れた世界を描くメタフィジカ絵画は、デ・キリコ自身は後に反論するものの、古典絵画への傾倒を根拠に1910年代末に放棄されたと言われたりもした。一方で、1910年代末から20年代初めにかけては、メタフィジカ絵画についてデ・キリコが芸術誌等で本格的に論じはじめる重要な時期であり、1945年には『1918−1925 ローマの思い出』と題された回想録も刊行されている。そこで本調査研究は、この回想録で扱われた7年間に着目し、この間のデ・キリコとメタフィジカ絵画の状況を詳らかにすることを目指した。なかでも注目したのは、「スクオーラ・ロマーナ(注2)」と現在では呼ばれる、戦間期にローマで活動した芸術家とデ・キリコの関係である。彼らは1つの運動体ではないが、おもな社交場であったコルソ通りのカッフェ・アラーニョや芸術家にアトリエを提供したヴィッラ・シュトロール=フェルンなどに集い、『ヴァローリ・プラスティチ』などの芸術誌を共に発行し、ローマ・ビエンナーレなどの展覧会に共に出品した。彼らの作品は時にメタフィジカの名を冠した展覧会等で一括りに扱われながら、メタフィジカ絵画との関係を具には指摘されてこなかった。また、デ・キリコが著書で触れる、スクオーラ・ロマーナ周辺の評論家らから受けた批判についても、詳細な考察はなされてこなかったように思われる。そこで本稿ではおもに、スクオーラ・ロマーナとその周辺人物による批判と受容を切り口にし、当時のデ・キリコとメタフィジカ絵画について考察したい。ローマにおけるデ・キリコとメタフィジカ絵画への批判デ・キリコは、1918年11月にフェッラーラからローマへ移ってくるが、同年5月にすでにローマの独立芸術展に参加している。この際、彼はフェッラーラの地元紙に、キュビズムも未来派も乗り越えた新しい絵画が生まれたとメタフィジカ絵画について意気揚々と書いたが(注3)、それから1年も経たない1919年4月2日付の画家カル― 166 ―⑮ローマにおけるジョルジョ・デ・キリコとメタフィジカ絵画
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