鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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ロ・カッラ(1881−1966)宛ての書簡に、ローマでの自らの境遇を「ここローマでは、少しずつ私の周りに砂漠ができていくのを見てきた。いたるところで敵意や無関心に遭遇する(注4)」と綴っている。では、彼に何があったのか。当時のローマでの出来事には、同年2月2日からのイタリアで初の個展と、それに対する美術史家ロベルト・ロンギ(1890−1970)の酷評(注5)がある。この個展以降、デ・キリコのローマでの展覧会参加が1923年5月まで確認できないことや、メタフィジカ絵画に関する論考を多数発表しながら、1921年1月の段階で「2年ほどメタフィジカ絵画に従事していない」と発言していること(注6)、また、『1918−1925 ローマの思い出』では、7年間を一繋がりのローマ居住期のように語りながら、実は1919年11月から翌年4月までミラノに暮らしていたことも(注7)、ロンギの酷評を始めとするローマでの不遇と少なからず関係があるように思われる。さて、「整形外科医の神へ」と題し、おもにマネキン作品を揶揄したロンギの展評には、その後さまざまな人物が書くことになるデ・キリコ批判のおもな論点のうち、次の3点が読み取れる。それは、非絵画的である、誇張がすぎる、混成的であるという批判である。本稿ではこのうち、混成的であるという批判について考察したい。まずロンギは、比喩的に、教皇パウルス5世下の使節によるバロック美術と日本美術の遭遇ぐらいにしか果たせない「文明の対蹠地のおぞましい接近」と述べ、かけ離れた要素の混在を揶揄するが、その要素には具体的に言及していない。では、デ・キリコの混成性やその要素を、他の論者はどう指摘したのか。例えば、画家・文筆家チプリアーノ・エフィスィオ・オッポ(1891−1962)は、デ・キリコやカッラ以外の画家もメタフィジカ的であるという理由で批判し、混成性に関して言えば、アキッレ・フーニ(1890−1972)の作品を「メタフィジカ的グロテスク(注8)」と評したことは、混成性から生まれる奇妙さをメタフィジカ絵画の特性と捉えていて興味深い。デ・キリコの混成性については、『ヴァローリ・プラスティチ』グループとしてデ・キリコが参加した1922年の春のフィレンツェ展の展評で、オッポが言及している。彼は、デ・キリコと同じグループの一員として同展に出品しながら、自分は最初からメタフィジカ絵画の反対者であると前置きし(注9)、デ・キリコ作品については、1300、400年代からの借用や盗用、ブロンズィーノやベックリーン、オーヴァーベックなどの混交と評している(注10)。また、1923年の第2回ローマ・ビエンナーレに出展したデ・キリコについて、美術評論家エミリオ・チェッキ(1884−1966)は、「ここにプラクシテレスの断片を見つけたかと思えば、別なところにマンテーニャかドナテッロのモチーフを見つけるのも難くない」と述べ、「古道具屋で演じられるホフマン風の― 167 ―

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