メタフィジカ的意義に言及した(注18)。建築表現は、1910年代を通じてデ・キリコがさまざまに試み、メタフィジカ絵画の重要な要素と考えたものである(注19)。この2つの論考でも彼は、メタフィジカ的な構図表現における建築物の重要性に触れ、現代人が失った建築的感覚を求めて、ジョットやティントレット、ホルバイン、プッサン、ロランといった画家に言及する。彼らの建築表現でも、とりわけ、風景を切り取る窓やアーチなどの建築的構造物と人物を組み合わせたり、建築物や台座、柱などの建築的構造物からなる風景に人物を配したりするものについて考察している。そこで、当時のデ・キリコの作品を見ると、論考で言及していた建築物と人物の組み合わせ表現を実践していることがわかる。例えば、風景を切り取る窓に人物を組み合わせる表現は、自画像群〔図1〕や《母の肖像》などに、建築物のある風景に人物を配する表現は、《放蕩息子の帰還》〔図4〕や《旅立つアルゴナウテスの挨拶》〔図6〕、《メルクリウスとメタフィジチ》〔図8〕などに見られる。マネキンなどの特徴的なモチーフは消えたものの、どことも知れない空間に、二重の自画像や互いの関係性が読めない複数の人物が描かれ、謎めいた雰囲気は残されている。では、こうしたデ・キリコの表現と相通ずるものが、スクオーラ・ロマーナのどのような作品に見られるか。まず、風景を切り取る窓などと人物の組み合わせは、ヴィルジリオ・グイーディ(1891−1984)やフランチェスコ・トロンバドーリ(1886−1961)などに見られる。例えば、グイーディの《市電にて》〔図2〕は、風景を切り取る窓と、前を見たり、屈んだり、子を抱いたりした、同じ空間にいながら別々の空間にいるような人物を組み合わせ、日常的な設定ながら謎めいた雰囲気の作品である。一方、トロンバドーリは、1940年代以降の風景画群がメタフィジカ絵画との関係性を指摘されたりするが(注20)、少し早い時期には、イーゼル上の風景画を背にした裸婦〔図3〕を描いている。それは、窓ではなく、風景を切り取る「カンヴァス」と人物を組み合わせる彼独自の表現と言えよう。また、建築物からなる風景に人物を配する表現は、フェッルッチョ・フェッラッツィ(1891−1978)やジュゼッペ・カーポグロッスィ(1900−1972)、フランコ・ジェンティリーニ(1909−1981)などに見られる。フェッラッツィは、室内や、簡素な階段、オベリスクなどのある戸外の風景に、さまざまなポーズの人物を配し〔図5〕、カーポグロッスィは、祭り用の木組みや水泳客用の小屋などの建築的構造物のある風景に、同じ場を共有しながら関係性が希薄な人物を配し〔図7〕、両者とも独特の謎めいた作品を描いた。また、ジェンティリーニの《海辺の若者》〔図9〕は、カーテンのある建築的構造物を背に、互いに傍らにいながら交わりのない2人の裸体― 169 ―
元のページ ../index.html#179