鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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注⑴G. de Chirico, “Sull’arte metafisica”, Valori plastici, a.I n.4−5, Roma aprile-maggio 1919, p. 16 in A.Cortellessa (a cura di), Giorgio de Chirico Scritti/1 Romanzi e scritti critici e teorici 1911−1945, Milano:RCS Libri, 2008, p. 289.⑵本稿で言及する人物のうち、スクオーラ・ロマーナの芸術家とされるのは、デ・キリコ、オッポ、ブローリオ、グイーディ、トロンバドーリ、フェッラッツィ、ジェンティリーニ、カーポグロッスィであり、その周辺人物としてしばしば言及されるのが、ロンギ、チェッキ、サルファッティである。Cf. http://www.scuolaromana.it/⑶G. De Chirico, “L’arte metafisica della mostra di Roma”, La gazzetta ferrarese, Ferrara 18 giugno 1918,in Cortellessa (a cura di), op.cit., pp. 660−662.⑷Lett. di G. de Chirico a C. Carrà, 1919 aprile 2, da Roma a Milano (Car.I.49.25), conservatanell’Archivio del ’900 (Museo di arte moderna e contemporanea di Trento e Rovereto).⑸R. Longhi, “Al dio ortopedico”, Il tempo, Roma 22 febbraio 1919, in G. Briganti/E. Coen (a cura di), Lapittura metafisica, Venezia: Neri Pozza Editore, 1979, pp. 146−149.⑹G. de Chirico, prefazione, cat. della mostra personale del pittore Giorgio de Chirico, Milano 1921, lacopertina in Cortellessa (a cura di), op.cit., p. 775. たしかに、マネキンなどの特徴的なモチーフは、1919年頃から22年頃まで一旦見られなくなる。ただし、《2つのマネキン》という作品の制作の若者が、1人は立ち、1人は階段のようなものに腰掛けていて、とりわけデ・キリコの《メルクリウスとメタフィジチ》を思わせる。おわりに冒頭で述べたように、スクオーラ・ロマーナは1つの運動体ではなく、デ・キリコに対する見解も一様ではないが、彼らの多くに通底するものがあるとすれば、その1つは、デ・キリコが論考や作品を通じて追求していた建築表現の復活であると言えよう。その1920年代のデ・キリコの試みは、メタフィジカ絵画の放棄が言われるものの、それ以前のメタフィジカ絵画における試みとも矛盾していない。ただし、フーニなどローマ以外を拠点にしたイタリア人画家や『ヴァローリ・プラスティチ』などを通じてデ・キリコらを知ったドイツ人画家に比べ、当時のスクオーラ・ロマーナには、メタフィジカ絵画の影響を指摘しづらい。それには、ローマにおけるメタフィジカ絵画批判の風潮が少なからず影響していると思われる。しかし、1930年代、40年代と時を経るにつれ、スクオーラ・ロマーナの作品にも、メタフィジカ絵画に通ずる要素が以前より見られるようになり、やがて80年代のローマには、アナクロニズモのような傾向も現れる。こうしたメタフィジカ絵画とその余波についても、本調査研究を礎に、さらに長い時間の幅でより深く考察することを今後の課題としたい。― 170 ―

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