鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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研 究 者:神戸大学大学院 人文学研究科 研究員 安 永 幸 史はじめに国沢新九郎は、弘化4年(1847)に生まれ、明治3年(1870)7月からアメリカ経由でイギリスに留学した。ロンドンで西洋画を学んだ後、明治7年(1874)に帰国、東京・麹町平河町に画塾「彰技堂」を開設するなど、西洋画の普及に精力的に活動するが、明治10年(1877)3月12日、肺疾のため麹町の自宅で死去している。上記のような経歴のため、国沢の帰朝後の作品は非常に少なく、国沢が明治洋画界に残した功績の多くは、彰技堂の設立とそこでの教育にあると言える。彰技堂での教育に関しては、金子一夫氏による研究が存在し(注1)、教育内容や門弟など多くのことが明らかになっている。しかしながら、こうした研究が進む一方で、彰技堂の設立目的について、具体的な資料から論じた研究は行われていない。国沢の活動や彰技堂という画塾の歴史的な意義を検討する上では、こうした事実の検討も重要な課題だろう。本論文では、先行研究で取り上げられなかった新聞記事などの資料から、彰技堂の設立目的などについて検討したい。1 国沢新九郎の留学と帰朝後の活動─明治8年4月まで─国沢新九郎は明治3年から高知藩留学生の一員としてイギリスに留学、明治7年に帰国している。国沢新九郎の実弟、国沢新兵衛の書いた『国沢新九郎覚書』(東京文化財研究所蔵、以下『覚書』)からは、留学当初の目的は絵画学習ではなかったものの、途中から転向したことがうかがえる(注2)。国沢が師事した画家について、『覚書』には「エトカート・ウイリヤムス」、国沢帰朝直後の明治7年11月18日付の『日新眞事誌』第160号に掲載された国沢を紹介する「禀告」では、師事した画家について「ヂョウヂウヰリーヤーム」と記されており(注3)、今ひとつ判然としない(注4)。このように、国沢のイギリスでの絵画学習の実態には不明な点もあるが、国沢の留学があくまで高知藩による人材育成の一環として行われたことは確かであり、画学へ転向後もある種の使命感を持って学習に励んだことは想像に難くない。しかし、明治6年(1873)には成業の見込の乏しい官費留学生に巨額の国費を投ずることの是非に関する議論が起こり、専門科に進んでいない127人に対する帰国命令が出されることとなる(注5)。この年の7月に出された「海外留学生改正処分ノ儀伺」には、帰国命令を受けた人物として国沢新九郎の名が見られるため(注6)、明治6年7月― 176 ―⑯国沢新九郎の帰朝後の活動に関する研究

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