以降のいずれかの時点で明治政府からの帰国命令を受け、明治7年に帰国したと考えられる。『覚書』によると、国沢は帰国した後、一時的に高知の実家で生活していたようだ。また、この期間中、国沢は自身の滞欧作品のほか「燕尾服、フロックコート、背廣など種々の器具」を共に座敷に展列していたことが『覚書』には記されている。しかし、高知への帰郷はあまり長い期間のものではなく、帰郷後しばらくして国沢は妻と長女、展列していた種々の作品とともに上京している(注7)。この状況の時期や様子について、『覚書』に明確な記述は存在していないものの、東京文化財研究所所蔵の『本多錦吉郎翁伝記』には、後に彰技堂の後継者となる本多錦吉郎が、明治7年の晩秋に「國澤新九郎と云える人英國に渡り、油繪を學び歸朝して斯道を教授せんとして生徒を募りつつ」あることを聞いて、国沢に面会し弟子入りを承諾されたことが記述されている(注8)。また、明治7年11月18日付の『日新眞事誌』第160号には、「門人本山折九」によるものではあるが、国沢新九郎の紹介をする以下の「禀告」が載せられている。高知縣士族國澤先生嚮ニ藩撰英國生徒タリ同徒數名各理學ニ入リ語學ニ入ル先生獨途ヲ異ニシ目ヲ油描ニ注ギ龍動府有名ノ畫工(ヂョウヂウヰリーヤーム)氏ニ附テ研究技學井進(中略)先生ノ帰朝スルヤ皇國油描ノ開運トス仰彼ノ國ノ畫事タル我文人高致雅趣ノ類ニ非ス國家不可不備ノ具トナス故ニ大小ノ校ヲ開キ頗壮観ヲ競フ其校タルヤ私費ニ属スト雖トモ是カ教師タル者ハ則チ公撰ニ在テ官能ク保護之也皇國已ニ文運ノ化ニ浴シ公私學校盛事ヲ表ス獨畫學校ノ不興ヲ以テ爲缺典先生志在千茲大ニ同志ヲ募リ學校ノ開業ヲ計リ畫事ノ國家ニ益アルヲ知ラシメントス朝野ノ君子志アル者ハ先生ノ寓居麹町平川丁四丁目廣瀬清兵衛方ニ駕ヲ枉一一ヲ請フナリ門人本山折九爲ニ録シテ以テ四方ニ流布ス(注9)この文章からは、国沢は遅くとも明治7年11月までには上京し、弟子も取り始めていたことがわかるだろう。また、この時点での国沢の活動目的が、官立のものか私学も含めるのかは判断し難いが、「學校ノ開業ヲ計リ畫事ノ國家ニ益アルヲ知ラシメントス」にあると記述されている。ただし、ここで「同志ヲ募」っていることが、「画塾」として彰技堂の開校と同一であるかは慎重な判断が求められる。実際、東京文化財研究所に写本が所蔵されている『彰技堂門人帖』では、本多錦吉郎や本山折九を別枠として扱った上で、明治8年(1875)4月4日から学生の入舎に関する記述が始められ― 177 ―
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