鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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ている。これは明治8年4月以降に「画塾」としての彰技堂の体制が整備されたこと、別枠で扱われた本多錦吉郎らはその体制整備以前からの門人であることを示していると考えられる(注10)。ここで重要なことは、明治7年11月の時点からすでに弟子を取り始めていたにもかかわらず、明治8年4月に画塾としての体裁を改めて整備したということである。こうした行動からは、明治7年11月の段階では、国沢による画学教育は本格的に開始されていなかったか、少なくとも「画塾」という形式を取っていなかったこと、そして国沢にとっては、画塾としての体裁を整備した上で彰技堂を運営することには、単純に弟子を取るという以上の目的があった可能性が考えられる。画塾彰技堂の歴史的意義を考察する上では、こうした点を無視することはできないだろう。そこで次章以降では、こうした点を踏まえながら、明治8年4月以降の彰技堂を国沢がどう位置づけていたのかを考察したい。2 国沢新九郎の帰朝後の活動目的─画塾彰技堂設立をめぐって─これまでの研究では取り上げられていないが、明治8年4月10日付の『東京日日新聞』第812号には、「彰技堂主人」名義での「寄書」が寄せられている(注11)。前章で述べたように、『彰技堂門人帖』の記述からは、明治8年4月に彰技堂が「画塾」として体制を整えたことが見て取れる。そのため、それと同時期に国沢自身により出されたこの「寄書」の内容は重要だろう。まずはその内容を見てみよう。維新以降文運ノ隆盛ナル公私ノ學校ヲ各處ニ設立シ遍ク百般ノ技藝ヲ學バシム然ルニ畫學ニ至リテ獨リ未ダ其設アルヲ聞カズ蓋何ゾヤ世人往々繪事ヲ以テ文人墨士ノ游技ト見做シ未ダ學業上ノ一要課タルヲ知ラザレバナリ夫レ畫ノ徳タルヤ文字ノ及ブベカラザル所ヲ模シ言語ノ通ズベカラザル所ニ達シ人ヲシテ能ク未見物ノ眞形ヲ坐視セシム是レ畫ノ最モ知識学ニ緊要ナル所ナリ凡ソ天地ノ間夥多ノ動植物ヲ生ジ万國各〃其名稱ヲ異ニス山川鳥魚ノ種類ニ至テハ殊ニ地方ニ因テ異名ヲ附シ各國ノ文字ヲ知ル者ト雖トモ多クハ書字上ノ想像ニ出ルノミニシテ其眞形ノ如何ヲ知ル能ハズ一タビ之ヲ畫ニ載スレバ熱地氷界ノ懸隔アリト雖トモ世人互ニ其隔地ノ物躰ヲ實見スルノ思ヒヲ為サシム況ンヤ萬國ノ事物ヲ坐右ニ閲シ且ツ昔日ノ情態ヲ視ルベク其技ノ妙タル殆ンド文字ノ上ニ出ルト云ワン亦可ナリ本邦古来種々ノ畫法アリト雖トモ皆ナ粗濶ニシテ精密ナル者ナク之ヲ歐人ノ畫ニ比スレバ眞贋ノ別アルニ似タリ余ヤ曩ニ命ヲ奉シテ歐洲ニ留學シ専ハ歐人ニ就テ畫法― 178 ―

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