ヲ學ビ畧々其ノ一班ヲ窺フ事ヲ得タリ本邦既ニ文化ノ域ニ進昇スト雖トモ未ダ畫學校ノ設ケアラザルヲ嘆シ歸朝以來頻リニ畫學ニ従事シテ廣ク此學ヲ邦内ニ擴充シ以テ文化ノ万一ヲ裨補セント欲ス四方ノ君子苛クモ此ニ意アラ冀クハ同心協力シテ畫學校ノ設立ヲ謀ラン事ヲ因テ洋畫學假校ヲ左ノ地ニ開キ日々其學ヲ勉励セントス然レモ未ダ完備セザルガ故ニ四方諸君ノ來議ヲ待チ尚其盛業ヲ謀ラントス且ツ余ガ親シク説示スベキモノアレバ諸君幸ニ來趾アラン事ヲ希望ス仍テ貴社新聞ノ餘白ヲ借リ廣ク四方ノ君子ニ告ク実のところ、この文章は「洋畫學假校」について言及している部分以外は、『彰技堂規則書』に書かれている趣意書とほぼ同一となっている(注13)。『彰技堂規則書』には「明治8年9月」と記されているため、この「寄書」の文章が後に規則書における趣意書に転用されたと見るべきだろう。このことから、この文章は、彰技堂の根本的な位置を体制整備と同時に発表したものと考えられる。この点を踏まえた上で内容を整理すると、「寄書」の前半部分では、画学が単なる趣味ではなく重要な技芸であること、在来画法に比べて写実という点で西洋画法が勝ることが述べられている。その上で、日本が開化以来「既ニ文化ノ域ニ進昇」しているにもかかわらず、まだ画学を教える学校がないことを指摘する。そして、そうした状況を補い、「同心協力シテ畫學校ノ設立」を目指すために「洋畫學假校」を開き、画学の教授に励んでいるものの、まだそうした試みが完備されていないため、さらに多くの同志を募ることや「洋畫學假校」での生徒も募集することを述べている。国沢のこうした発言の中で、絵画の意義を写実性と、そこから派生する実用性に求め、在来画法より西洋画法が優れていると結論づける前半部分の論法は、高橋由一の「洋画局的言」にも見られる(注14)ものであり、こうした認識を根拠に画学校の設立を求めている点も含めて、特別に目新しいものではない。その意味では、三輪氏の指摘する通り、イギリスへの留学経験にも関わらず、国沢の西洋絵画観は、江戸時代の蘭学者や洋風画家たち、あるいは同時代の高橋由一らと大差ないものであった可能性が高い(注15)。むしろこの発言の中で注目すべきは、国沢自身が、明確に官立画学校に対する「洋畫學假校」として画塾彰技堂の設立を位置づけているという点だろう。この「假校」という語からは、実際に設立されるべき「正」に対する「仮」という意味合いがうかがえる。この「寄書」が『彰技堂門人帖』からうかがえる本格的な画塾として経営の開始と同時期に出されていることと考えあわせると、少なくとも明 第三大區二小區三軒屋隼丁三番地 彰技堂主人(注12)― 179 ―
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