頃日々新聞に高橋由一報知新聞に川上寛而氏の繪事を論ず予之を閲して世間洋畫の蔓延すへき端なるをしり曾て傳聞する両氏の性質を擧て遠郷僻地の人に報知す抑〃川上氏高橋氏は現今洋畫藩圍中の巨魁たると人に知る處なり然るに相共に全からず川上氏は高橋氏に先立て其術に進入せり高橋氏は端緒を川上氏に依り後に歐客感滿の門に入てはじめて運筆に趣意を悟る川上氏は其實漢畫に志ありて洋畫は虚飾に似たり油畫等に至りては中絶して筆管を弄することなし只洋畫に名聞を保有せんが爲に洋籍中より抜萃して階梯を示し學術の妙をも説けり曾て翻譯せし西畫指南も其術作中に出たるものなり是に反して高橋氏は論説を後にし只管運筆の一途に刻苦し物形物意を冩實して止まず其痕跡日々新聞第八百四十五号に出たる如し且生徒の誘導に於るも區々の論説に縛せられずして腕力に進歩を扶けんとす(中略)然らば二氏を比喩していはんに川上氏は腐手の講釋師なり高橋氏は亜啞の弄丸師なり二師を一體になしてはじめて洋畫の善導師生ず難哉難哉世上の幼學生夫レいづれをか取る 高輪 花柳外史(注18) この文書では、冬崖を実技能力に乏しい「腐手の講釋師」、由一を手の技のみに拘泥する「亜啞の弄丸師」と評し、両者の不完全さを指摘するなど、先の『東京日日新聞』の記事と比べて非常に辛辣な評価が見られる。この後、明治8年1月27日の『東京日日新聞』において、この寄書に対する反論が行われ(注19)、この話題は終息する。このやり取り自体は小規模なものではあるが、この明治7年12月の「寄書」が、由一、冬崖に対する非常に辛辣な評価を浴びせるとともに、画学教育者のあり方に言及して論を結んでいることには注目すべきだろう。実のところ、洋画の認知度の上昇とともに、明治8年頃の『東京日日新聞』紙上では、画学教育に関する論評がいくらか存在していた。例えば明治8年1月23日付の『東京日日新聞』914号の寄書欄には、高橋由一に油彩画を習っている女性がいることを述べ、それを肯定する論が寄稿されている(注20)。また、これは国沢による「寄書」の後になるが、明治8年4月23日の『東京日日新聞』993号では、西洋への輸出陶磁器への応用を目的としてではあるものの、画学を盛んにすることの必要性を説く論が掲載されている(注21)。こうした事実は、明治8年頃には、輸出品への応用という実利的要因もあってか、治7年12月17日付の『東京日日新聞』第881号の寄書欄ではこの記事に反応するかたちで、由一、冬崖に対する異なった評価が述べられている。■■■■― 181 ―
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