鹿島美術研究 年報第29号別冊(2012)
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画学を教える学校の必要性を訴える意見が、新聞紙上にある程度存在していたことを示している。また、そうした美術教育の必要性が認識される一方で、由一や冬崖らの洋画家として能力及びその教育能力に対する疑念が、ごく一部であれ存在していたことも確認できる。国沢による明治8年4月10日の「寄書」が、由一や冬崖に関するやり取りの行われた『東京日日新聞』に出されたことは重要だろう。国沢によるこの「寄書」は、『東京日日新聞』でのやり取りから見て取れるような、画学教育の必要意識と、そうした中で一部に存在していた由一らに代表される従来の洋画家の教育能力への一部からの疑義を背景として発表されたものではないだろうか。留学し、西洋絵画を学んだという自負のある国沢にとって、日本の画学教育の現状は不満足なものであり、官立画学校を最終的な目標としつつも、より即効性のある実践的活動として、自身による「假校」の設立を考えたとしても不思議ではない。つまり、明治8年4月以降の「画塾」としての彰技堂は、単に国沢が弟子を取ることを目的としただけのものではなく、こうした状況の中で日本における専門的な画学教育のあり方を模索し、その雛形となること自体を志向して設立されたものなのである。おわりにこれまで見たように、彰技堂は、厳密に考えるならば、明治8年4月の時点でその体制の整備を行い画塾としての教育活動を出発させていると考えられる。その際、『東京日日新聞』に「寄書」を出しているが、その内容からは、自身の「画塾彰技堂」を、当時まだ存在しなかった本格的な専門画学校の雛形となる「假校」として位置付け、日本に本格的な洋画教育を普及させようとした国沢の意図が見て取れる。こうした国沢による彰技堂の位置付けは、いくつかの点で重要だろう。彰技堂での講義内容と無関係なままではないと考えられる。金子一夫氏は、本多錦吉郎の時代ではあるものの、彰技堂での画学教育が、高橋由一の天絵学舎と比べると、実技だけでなく講義を重視するものであったことを述べている(注22)。また、『本多錦吉郎翁伝記』の記述からは、工部美術学校設立の際に、国沢のもとに協力の依頼があったことが記されている(注23)。田崎延次郎の証言からは、実態としての彰技堂の教育は、石膏像などの物資の不足により、後の工部美術学校などでの授業内容と比べて幾分稚拙な面があったことがうかがえる(注24)ものの、こうした彰技堂の教育内容や美術学校との関係は、帰朝者である国沢が、自身の画塾を欧米流の画学教育の発信地と位置づけていたことと密接に関係していると考えられる。つまり、単なる洋画の普及だ― 182 ―

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