それ以降徐々に縮小され、鏡の中の断片として描かれることになった。断片だけで舞台空間全体を示すという手法へと置き換えられたようにも思われる。カフェ・コンセールの作品と一番大きく異なるのは、鏡が画面いっぱいに導入されたことで、描かれるもの全てが鑑賞者と向き合う構造になったことである。習作と完成作の差異は《カフェ・コンセールの一角》と《ビールジョッキを持つ女》の差異とある部分で共通しているように思われる。《ビールジョッキを持つ女》で描く対象をマネが絞ったこと、《フォリー=ベルジェールのバー》で手前に大きくバーカウンターを据えたことで、それぞれのバーメイドが画中から引き離され、さらに鑑賞者に視線を向けたことによりその乖離がよりいっそう顕著になったのである。アラン・コルバンによると19世紀当時女給仕に求められた役割は客に寄り添い、飲ませ、時に身体も提供することであった(注11)。ジャン・ベローの作品《学生ブラッスリー》〔図10〕はカフェ・コンセールのような舞台はないが、客と共にテーブルに着き、タバコや酒を一緒に楽しむ様子が描かれており、マネの作品のように画中から切り離されることはない。フランソワ・ボンヴァンの《居酒屋の店内》〔図11〕では、手前のテーブルを前にした女給仕がキセルをくわえながら鑑賞者の方を向いて座っており、後ろにはパイプを詰めている男性が立ち、反対側にはパイプをくわえた男性が座っている。男たちに寄り添ってタバコを楽しんでいるという点でベローの女給仕と共通している。後ろの男性は詰め物をしながら女給仕に視線を落としている。テーブルの男性の方は、女給仕とともに鑑賞者の方を見つめているようにも見える。ここでは女給仕は鑑賞者の方へ視線を投げてはいるが、画中の出来事から疎外されているとまでは言うことはできないだろう。マネと同様、フォリー=ベルジェールのバーを描いたジャン=ルイ・フォランの作品《フォリー=ベルジェールのバー》〔図12〕では、やはりカウンターに立つ女給仕を斜め左から描いており、その背後に大きな鏡を据えている。鏡にはマネのそれと同じように群衆が描きこまれている。カウンターの周りには男性が数人描かれているものの女給仕と対話をしている者はいない。誰も彼女に気を留めていないという点ではマネの作品と共通するが、鑑賞者の方へは向いていないという点では、フォランの女給仕は画面のその他の要素から切り離された存在であると断定するまでには至っていない。これらの作品から《フォリー=ベルジェールのバー》のバーメイドを改めて振り返ると、やはりカフェ・コンセール主題の作品の段階から、マネが描くバーメイドは画面の中の出来事から切り離された存在としてのその特異な構成が際立っている。― 190 ―
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