研 究 者:ハイデルベルク大学COE “Asia and Europe in a Global Context” 1 はじめに嘉永元年にダゲレオタイプが日本に初めてもたらされて以来、写真という新しい視覚メディアは急速に普及することとなった。『武江年表』によると、明治6・7年頃には「影を鬻グノ店」すなわち遊女・役者・芸者・政治家・名所旧跡などの手札判写真を売った写真舗が登場し、その数は毎年倍増するほどであった〔図1、2〕(注1)。明治9年頃、東京には写真場が数十余り、写真舖が数百を数えるまでに至った(注2)。東京では浅草、日影町(現港区)、銀座街、神保町が写真のメッカとなり、江戸時代からの盛り場であった浅草奥山では明治16年までに28の写真館が開業していたという(注3)。この増加ぶりは東京に限定された現象ではなく、関西においても独自の写真番付が作られるほど写真師の数が急増していた。しかし一方で、手札判写真を買い集める人々の写真狂ぶりを彷彿させる記事や逸話は多く残っているものの(注4)、写真館で肖像写真を撮影することに関して、この写真の大流行の言説に相反する逸話も多く残っているのが事実である。大正元年に出版された『婦人と家庭』によると、大正時代に入っても寄宿舎生活をしている学生の内両親の写真を持っている者は、未だ少数派であった(注5)。また写真への忌諱が根強く残っていたことを示すものも多く、写真を撮ると寿命が縮む、あるいは三人撮りした場合真中の者が死ぬ、といった迷信が少なくとも明治10年代頃までは依然として残っていたことが明らかである(注6)。本稿ではこれまで研究の俎上に乗ることのなかった、明治期写真に関する様々な言説のはざまから立ち上がるこうした「不協和音」に着目する。近年見られる新しい写真史研究の動きとして、文化人類学や近代アジア視覚文化研究において写真を「文化装置」と捉えなおし、非西洋文化圏における写真実践が既存の視覚文化に順応する形で変容した様子をポストコロニアルな視点から分析する諸研究がある(注7)。こうした研究の潮流を踏まえ、明治期における写真実践を視覚文化の文脈に関連づけ、写真メディアの特性の受容のありかたを分析の手掛かりとしながら、明治期における「写真的なもの」とは何であったのか考察してみたい。具体的には、写真の視覚性と写真技術の複製性に着目し、肖像写真との関係性を中心に分析を行う。Postdoctoral Research Fellow― 195 ― 脇 田 美 央⑱明治期における写真概念と「写真的なもの」─写真の視覚性とメディア性コンセプトを中心に─
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