2 明治期肖像写真における「写真」の視覚性幕末に伝来した写真術が(怖れや抵抗を伴いつつも)急速に普及したその背景には、その写し出す画像の迫真性のもたらした強力なインパクトがある。写真舖が爆発的な人気を博し、明治10年には坂東彦三郎の手札判写真が大阪で完売するまでに至った。これは、旧来の浮世絵版画が写真リアリズムによって凌駕・駆逐されたことを象徴するものである(注8)と同時に、視覚の変容が油絵茶屋に代表される見世物文化へ取り込まれることとなった、明治期のリアリズム観の一面を象徴するものでもある(注9)。しかし一方で、写真リアリズムへのまなざしが一様でなかったことを示すものがある。その一例として、写真修整が常套化されていたことが挙げられる。明治期の肖像写真に関しては「写真に於ても不似の者ある事」への注意が喚起されねばならない程、明治末期に至るまで修整は被写体の男女を問わず日常茶飯事的に行われていた(注10)。殊に写真修整が肖像写真制作の最も大切な作業であったとの証言も残っている(注11)。写真修整の質がいかに写真館経営を左右したかは、明治12年に渡米した際学んだ原板修整術で有名となった東京・九段の写真師鈴木真一の例でも明らかである。ここで重要なのは、営業写真家の間では修整術は「人像作画中の一技術」とされており、無修整の肖像写真は想定外とされていたことである(注12)。欧米諸国でも「多数の顧客を確保するには写真の修整が最も効果のある手段」(注13)とされたが、日本でも同様に明治期において人の姿を留めた肖像写真には必須事項であった。具体的な修整の程度について技術書の記述を見てみると、首の筋や皺とり、黒子、瘡痕などを消し顔面部の肌の滑らかさを出すための方法が示されているのみならず、痩せすぎの像主の場合、こめかみや目の窪み部分を調整するなど顔の骨格にまで修整が施され、「写真に於ても不似の者ある事」が強ち誇張ではないことがうかがえる(注14)。こうした修整の跡については、修整がわからないように処置するのが目的であったから、紙焼き写真にその痕跡を認めるのは残念ながら難しい。種板修整にしても、明治期に撮影された湿板ネガが現存している例は極めて稀少である。当時の写真師は使用済のガラスネガを磨いて画像を消し、原板を再利用することが多かった事情もある。しかし、数少ない現存する湿板ネガや、ガラス板のネガ画像を黒い紙や布などの上に置き白黒が反転することからポジ画像が得られる仕組みを利用したアンブロタイプに、いくつか修整が施された跡を見つけることができる。明治中期以降撮影されたと思われる女性二名、子供一人を写したアンブロタイプでは、結いあげた髪や着物の輪郭部に注目すると、修整の際の手ぶれで不自然な仕上がりになっていることがわかる〔図3〕。また、影もなく均一に白い顔やスタジオの背景部についても手直しによ― 196 ―
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