るものだと思われる。管見の限り修整箇所が最も鮮明に確認できるものとしては、呉服商塩見専三郎の肖像写真がある〔図4〕。商売道具のそろばんを持ち、軽く目を伏せて撮影されたこの写真は、撫でつけられた髪の毛や髪の分け目部分の濃淡の極端さ、また上まぶたまではみ出てしまった点状の修整跡から黒目部分がネガで修整されより濃くされていたこともわかる。老女を写したアンブロタイプにも、同様の修整が施されている様子がわかる。髪の生え際の一部が不自然に濃く映え、黒繻子の襟よりも黒目がさらに濃さが際立っている点など、明らかにネガ画像が手直しされたことがわかる〔図5〕。皺等もトリミングされている可能性が高い。種板の修整については、当然技術的な側面も絡んでくる。明治10年代半ばまでは営業写真家らは輸入物ではなく自家製の低純度のコロジオン液を使用したため、ネガ画像の微妙なコントラストがつかず、またライティングが軽視されていたことから被写体が或る程度識別できる画像が得られれば成功とされており、コロジオン湿板法を用いた場合修整が必要であったことがわかる(注15)。コロジオン湿板法にかわる新しい写真技法である乾板法の導入期とされる明治10年代末頃には、日進月歩の勢いで進む技術革新に追いつくため、営業写真家向けの新技術を習得するための技術書が多く出版された。こうした技法書の一つである『写真術独伝習』(明治18年)には原板修整法について「消極板写方」項目内で解説されており、修整が「原板ノ欠所ヲ修整スルノ法」として営業写真家の作業の重要な一部として捉えられており、上記の技術的条件による修整の必要性という側面が裏付けされる(注16)。しかし、明治20年代も半ばになると修整技術は「悪シキ原板ヲ良好ナルモノトナスニハ非ズ唯良好ナル原板ヲシテ愈完全ナラシムルニアリ」(注17)とされ、技術的な欠陥を補填することとは別の観点から捉えられていたことがわかる。さらに、写真制作における修整技術の重要性を示すものとして、日本の営業写真家が乾板技法の簡便性にも拘わらず湿板写真を長く使用し続けていたことが挙げられる。コロジオン湿板法ではガラス板に沃化コロジオンを塗布し硝酸銀溶液に浸して感光性をもたせ、それが乾き切らないうちに撮影、現像するものである。今日の写真撮影とは異なり、撮影時には暗室を含めた大掛かりな機材や薬品を現場に持ち込む必要があった。乾板の登場は、湿板法の煩雑な技法から解放、露出時間の何十分の一秒への短縮など、これまでにない写真技法の革新を意味していたはずであった。明治10年代半ばに日本に初めて乾板が登場し、「早撮り写真師」として名をはせた江崎礼二が明治16年に隅田川でおこなわれた海軍水雷爆破演習を撮影したものが日本人による初の撮影事例のひとつとして知られているが、明治18年の時点でも営業写真家は手馴れた湿板を使用し続け、「江崎がひとり率先し― 197 ―
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