3 複製技術としての写真て速取り機械を用いたものの、他はすべて旧式一方」(注18)であったことは、日本初期写真史研究ではあまり顧みられていない。日本で湿板法が用いられたのは明治20年までという説が一般的であるが(注19)、一方で熊本では明治25年頃まで使用され続けたこともわかっている(注20)。こうした明治期の営業写真家の旧式の湿板法へのこだわりの謎を解くカギとして、修整用ニスがある。明治13年に原板修整用の「ラバニス」が発売されるまで、湿板写真時代の営業写真師は各々自己流で修整を行っていた。写真材料商の浅沼藤吉が開発し、以降専売品として発売された「ラバニス」は、それまでの肖像写真の修整作業を劇的に簡易化させたとされる。また、銀座の「江木塔」として有名であった江木写真館の写真技師を務めていた工藤孝は、専門誌『写真月報』に寄稿した「修整用假漆に就て」の中で、乾板が日本に輸入された後も営業写真師がみな乾板に消極的であったのは、乾板に合った修整用ニスがなかったためであったと述懐していることからも(注21)、写真原板の修整がいかに重要視されていたかが明らかである。また受容者からの要請があって肖像写真が商品として成り立っていたことを鑑みると、肖像写真においては写真特有のリアリズムより概して理想化された表象が要求されたこと、さらにそれに応えるために特定の写真技法に拘る傾向さえ見られたことは特筆すべき点である。写真という近代的視覚技術がもたらしたものは、手札判写真を浮世絵に取り込んだ落合芳幾の錦絵シリーズ〈俳優写真鏡〉の登場に代表されるような、既存の視覚メディアとの競合・共存関係に限らない(注22)。殊に明治期における写真実践について特筆すべきことは、紙焼き写真・アンブロタイプ・写真油絵など「写真」が多様な形態で出現し共存していたという事実である(注23)。東京の写真館において自らの肖像写真を求める場合、明治7年の時点で既に紙焼き写真か「硝子・瑠璃うつし」の選択肢があった。紙焼き写真は、基本的にガラス板のネガ画像を塩化銀感光紙に焼き付けることで得られ、複数枚のポジ画像を作成することが可能である一方、「硝子撮り」「ガラス寫し」または「裏塗写真」と呼ばれたアンブロタイプは、コロジオン湿板法で得たガラス板ネガの裏面に黒ニスを塗布したり黒い布を当てることで、白から灰色の階調のネガ画像を反転させ、ポジ画像が得られる仕組みを利用したものである。この技法は幕末・明治初年あたりから登場し、19世紀末に至るまで長期にわたり日本で大量に制作されていた〔図6〕。欧米諸国では既に廃れた技法とみなされていた明治後期頃までアンブロタイプが制作され続けたことや、桐箱におさめられたその形態― 198 ―
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